たりたの日記
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2001年12月23日(日) マリアなのにマルタをやってる

教会暦では今日がクリスマスだ。クリスマス礼拝には礼拝堂の椅子にぎっしりと人が詰まる。礼拝の後は恒例のポットラックのパーティー。持ち寄りのお料理がテーブルいっぱいに並ぶ。どれもいただきたいがあまりにたくさんの種類があるからお腹と相談しながら何を食べるか注意深く選ぶ必要がある。そのほかに生徒のお母さんがせっかく作ってきてくださったものはいただきたいし、私の作ったバナナケーキをおいしいといって下さった方にはお返しというわけではないけれど私もいただきたいと思う。またこの時くらいしかゆっくり話せない人もいるのだから食べてる場合じゃない。お話しなくっちゃと思うからあせって食べる。でも役員なんかをしてると食べることも話すこともそこそこに子どもたちを遊ばせたり、プレゼントを配ったり、はたまた明日のキャンドルサービスのろうそくを準備していない(指摘されてから、あら私の仕事だったのと思ったのだ)ことに気がついたりと気を回すことがいっぱいなのだ。
実のところ私はまったく気が回らない。私はマルタのタイプではなく、マリアのタイプだ。

マリアとマルタの家にイエスがやってきた時、イエスをもてなすために忙しく立ち回るマルタをよそに、妹のマリアはイエスの足元で一心にイエスの話しに聞き入っている。頭に来たマルタはイエスに手伝いをしないマリアに何か言ってくださいと頼むのだがイエスはこう答える。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

私はイエスのこの言葉をその通りだと思っている。にもかかわらず、まさにマルタのように多くのことに思い悩み、心を乱している。そしてマルタのように「なぜ私ばかりがこのように悩まなければならないのですか」と心の中で訴えている。イエスがこのような猥雑なことを何も望んでおられないことを知りながらそこに身を置いている矛盾。このポジションははっきり私に向いていないと思う。マルタをやりたくない。心底マリアでありたい。教会全体がマリアになる訳にはいかないのだろうか。だれも「もてなし」をせずにただイエスの言葉に耳を傾けることに徹するという具合に。それを妨げているものがあるとすれば何なのだろう。それはイエスから遠いものなのではないだろうか。


たりたくみ |MAILHomePage

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