たりたの日記
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12月1日という日はいつも特別という気がする。 12月だと考えるだけでふうっと大きな溜息が出るのはどうしたことだろう。 暮れの気ぜわしさの中にぽっかり空いた空ろな穴が見えてしまうのは私だけだろうか。一年間のご無沙汰を年賀状で埋め合わせしなければ、一年間さぼった掃除をまとめてしなければ、クリスマスやお正月をそれらしくしようと思うからだろうか。何も大したことをしているわけでもないのに。
そうか、12月というのは主婦の力量が問われる月なんだ。少なくても私にはそんなプレッシャーがある。でもいったい誰に対してのプレッシャーというのだろう。誰も何も言う人はいないのだが。うん、これはトラウマだな。 主婦というものに成り立てのころ、とにかく暮れと正月だけは「きちん」とやらねばと悲愴なほどに思いつめていた。手作りのクリスマスカードに年賀状。クリスマスの飾り付け。緑の枝を集めてリースを作るのもきまりごとにしていた。クリスマスツリーの下にはいくつもの箱が積まれるようにプレゼントを買い整える。教会ではコーラスだの劇だのクッキー作りだのとやたらといそがしかった。おせち料理のメニューと手順をノートに書き出し、3日前から取りかかる。大掃除は気ばかりせいていた。慣れないことをするものだから、だいたい暮れは体をこわし病院へ通うという愚かしさだった。 随分いい加減になってきたからここのところ暮れに寝込むこともなくなったがそれでも「やらなくっちゃ」という気分だけが残っていているのだろう。 毎年この季節が来ると、誰も知らない土地、できれば修道院のようなところで年の暮れと新年を過ごしたいと思う。子どもたちがそれぞれに独立したらそんな日も来るかしらと心待ちにしている。
でもね、気の持ちようではないかしら、今年の12月こそは気ぜわしくならないように心静かに過ごすことは可能ではないかしら。何もかもシンプルに、他の月と変わらないように。目に見えることでしめくくりや祝いをするのではなく心の中でそれをする。ひっそりと今年を終え、ひっそりと新しい年を迎えるそんな12月にしてみたい。
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