たりたの日記
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2001年11月23日(金) ヴァッスーラの預言

私の通う教会に長年に渡り神学校で教え、多くの神学書の翻訳をされ、牧師として働き定年退職しておられる方がいる。偉い先生という認識はあったが個人的にお話する機会もないまま数年が過ぎていた。最近になって新しい牧師を迎えるにあたって教会員が自分の信仰や今の心の状態、またどんな礼拝を求めているのかを言葉に出して話すようになった。それ自体とても心動かされることだったが、中でもその退職牧師のY先生の言葉に強く打たれるものがあった。彼はこう言った。私はもう人生も終わりにさしかかり、今死に向かって歩いています。私は日曜日ごとの礼拝でイエスに出会いたいのです。礼拝を通じてイエスに見え、いつ召されてもよいというようなき持ちで礼拝を受けたいのです。彼のひたむきな希求を感じた。痛々しいほどに求めておられるその姿に打たれた。
私は彼が多くの著書を残した故ではなく、長年牧師という職業についてきた故ではなく、今もなおイエスを求めて止まないその強い思いの故に彼を信頼し、彼の霊性の高さを知る。そして思う。イエスの求めている魂とはこういう魂だと。

さてこのように書きだしたものの、私はそのこととこれから私が書こうとしている
ヴァッスーラのことをどうつなげたらよいものかと迷っている。実はこの日(11月23日)、上智大学内にあるカトリックセンターで行われた講演会に出席するまで
私はヴァッスーラという女性のことを一度も聞いたことがなく本も読んだことがなかった。クリスチャンは聖霊に導かれてという言い回しをよくするが、まさに聖霊に導かれるように何も知らないままでそこに足を運んだのである。

ヴァッスーラは修道女でもなければ牧師でもない、教会にさえ通ってはいなかったし、キリスト教の教育も受けてはいなかった。そんな一人の主婦が43歳になったある日突然イエスの言葉を預かるようになった。いわゆる現代に生きる預言者だという。
ここまで読んだ人は胡散臭い話しだと眉をひそめているかもしれないが、聖霊の働きや今も生きて働くイエスの存在を信じるクリスチャンでも「あなた、なんて恐ろしいことをいうの」という反応が返ってくるような気がするし、牧師であれば「それは異端だ」と私を危険視するかも知れない。なぜならイエスは2000年ほど前の人で私たちはイエスが語り弟子たちが書き綴った聖書をイエスのことを知る唯一の手がかりとしているからだ。イエスを知るためにはその聖書の正しい理解が必要であり、そのためにはそれについて深く学び教会から承認された聖職者の導きが求められる。”正当な”イエスと出会う場所として教会が必要となる。ほんとうのところイエスは私たちにどんなことを伝えようとしたのか調べ、思考し、祈り、大変な労力を払って説き明かされる。時には教師の語る言葉が魂に触れてこず、イエスに会えないと苦悶する。最近になって今世紀最大の発見ともいわれる死海文書がようやく出版され人の目に触れるところとなるが、キリスト教はイエスの真実に一歩でも迫りたいと道を探し続けているのである。膨大な研究がなされてきたはずだ。それなのに、イエスキリストが日々一人の主婦に向かってメッセージを託し、それが13年間の間に10巻の本にまとめられているというのである。もしこれが真実であるなら、それは死海文書の発見などには比べ物にならないほどの大事件だ。もう2000年前のイエスに迫ろうとせずとも、今の時に語るイエスの言葉をヴァッスーラの預言の書に求めればよいのだから。

私はここでヴァッスーラの預言がイエスによるものかどうかを議論する気は毛頭ない。この本が私がなじみ親しんできたイエスとどうかかわっているかだけが私の関心事だ。ここへと誘われたのだから私はいつものように納得のいくまでここに身を沈めてみようと思う。私が心を動かされインスピェーションを得てきたことがら、セルマのこと高橋たか子の神の海、遠藤周作と宗教的多元論、アフガニスタンの中村哲医師、龍村仁監督の訴える霊性の教育、マオさんの仕事、ちいさな声、私とイエスを結ぶ線上につながってくるそれらのこととヴァッスーラの預言がどのようにつながっていくのいだろうか。


たりたくみ |MAILHomePage

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