たりたの日記
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芋、栗、カボチャがおいしい季節になった。2日ほど前、母から栗の渋皮煮と、マロングラッセが冷凍便で届いた。マロングラッセは父がお世話になっている病院の看護婦さんや看護士さんに食べてもらうために毎年たくさん作るというので、私にも送ってとたのんだのだった。手間暇かけて作ったこれらのもの、一度に食べてなるものか。ひと粒づつ味見をして、そのまま冷凍庫にしまった。母はこの時期にこしらえた栗の渋皮煮をお正月用に取っておいく。我が家の冷凍庫のスペースが許す限りしまっておこうと思う。それにしても冷凍庫は超満員の状態だ。たこやきの他には大学芋が場所ふさぎになっている。最近は大学芋は冷凍に限ると思っている。外側はぱりっとしていて中はほくっと柔らかい。お弁当の隙間を埋めたい時に重宝する。凍ったままを入れれば、自然に解凍するのだから。
冷凍の大学芋のことを父が知ったら何というだろうか。大学芋くらい自分で作れというだろうか。父はきっとこう言っただろうな。「お父さんが作ってやろうか」と。子どもの頃、父はよく大学芋を作ってくれた。それも我が家ではとうてい食べきれないほどの量の芋を皿に何枚分も揚げこれも大量に煮詰めたたれにからめた。それにしてもあの大量の大学芋はどうしたのだろう。冷凍庫などなかった時代である。きっと御近所に配ったのだろう。
この大学芋で大変だったことがある。私が小学校2年生の10月に下の弟が生まれた。まだ母と赤ん坊が病院に入っていたある日、父が大学芋を作った。そして、どういう訳か、私とすぐ下の弟がその芋を持たされて、長い道のりを歩いて母のいる病院まで持っていくことになったのだ。父は鍋2つに作ったばかりの大学芋をぎっしり詰め、蓋をして風呂敷で包んだ。 弟が一つ、私が一つ持ったのだが、いくらも歩かないうちに重さがこたえはじめた。坂道を降りたところで、二人とも手から鍋の包みを降ろして、痺れた手を振ったりしなければならなかった。私は弟の鍋が私のものより小さくて軽いのを知っていたので、弟をうまくだまくらかして、私の包みと取り替えっこしたらしい。そこいらのことを、作文に書いたのを覚えている。作文によれば、姉なのに、弟をだまして、重い方を持たせたりして悪かったと反省し、また取り替えっこしたらしい。とにかく無事に病院にたどり着いた。母はどんな顔をしたのだろう。私と弟はそれからどんなことを母に話したのだろう。そういうことは作文にも書かなかったから、思い出す寄すがもない。
それにしても、こんなにたくさんの大学芋を母がみな食べたとは思えない。そんなにたくさん持っていく必要があったのだろうか。またそれほど重いものを小さな子ども達に運ばせて自分は何をしていたのだろうかと今になってみれば不思議に思う。きっと、同じ病室の人や看護婦さん方に差し上げるつもりだったのだろうし、実際そうしたのだろう。父の大学芋をみんなが喜び、感心したに違いない。ところで、父はなぜいっしょに病院にこなかったのだろう。父は私たちに持っていかせた後も延々と芋を揚げていたのだろうか。なんだかそんな気がしてくる。
今も実家の台所にはきっとどこかからもらったさつま芋が袋いっぱいはあるに違いないが、子どもの頃も買ったお菓子などはあまりなくても、さつま芋はどっさりあって、処理に困るほどだったような気がする。畑をやっていたわけでもないので、どこからかいただいたのだろうが。さつま芋は嫌いではないが、どうしても買う気にはなれない。大学芋は確かにおいしいが2、3個も食べればお腹が膨れる。冷凍のものを買っておいて必要なだけ解凍して食べる方がいいと、大学芋を作らないのは、どこかであの重い鍋の大学芋が災いしているのかもしれない。
ところで下の弟が生まれた日のこと。病院から生まれたという知らせの電話があった。当時は自宅に電話を持っている家などほとんどなく、電話局に勤めている人の家の軒先きに公衆電話があり、電話がどこかからかかってくると、そこの家の人が家まで呼びにくるというしくみになっていた。弟が生まれたという知らせもそんな風に届いたように記憶している。知らせを受けてすぐ、私たちは病院に向かった。夕方だった。父を真ん中にして私と弟が両脇にくっついて病院まで歩いていった。男か女かはまだ分かってなかったのか、それとも私たちには隠していたのか、父は歩く道々、弟と妹とどっちがいいかと私たちに聞いた。私は女の子がいいといい、弟は男の子がいいと言った。
病院についてみると、待ち合い室が人だかリで、なんだかひどく熱気がある。時は東京オリンピックの頃、東洋の魔女と言われた日紡の女子バレーチームの金メダルをかけた闘いの最中だったのだ。それが分る前は弟は生まれたのでみんなが集まっているのだと思っていた。ところが看護婦さんはテレビの前から立ち上がると、私たちを賑やかな待ち合い室から離れた人気のない病室の廊下に連れていった。その廊下の隅に赤ん坊が入れられたワゴン車がほつんと置いてあった。我が家の赤ちゃんをみんなが取り囲んでいないのが口惜しかった。生まれたての赤ん坊は絵本などに載っているキューピーちゃんみたいではなく、真っ赤で、くしゃくしゃな顔をしていた。しかも女の子ではなかった。弟は勝ち誇ったような得意な顔をしたので、私はなんだか負けたようで悔しかったのを覚えている。しかし赤ちゃんの顔はすぐに白くお人形のようになって、私は世話もしたが、生きているお人形のように小さい頃の弟を楽しんだような気がする。
東洋の魔女達はオリンピックで優勝し、また他の種目でも日本人の活躍が伝えられ、日本中が何か沸き立っていた時ではなかっただろうか。父は赤ちゃんは東京オリンピックの最中に生まれたのだから、平和の和と五輪の環の2つの意味を持たせて和という字を入れようと提案した。終戦から20年近く経ち、日本はすっかり平和な国となって再生していた。そして、ますます豊かになっていった時代だった。おもちゃや絵本、お菓子、テレビの番組、私と上の弟が育つ時とは比べ物にならないほど豊富になっていた。世界、一部の世界はその後もますます、豊かに便利になった。でも今世界の平和はぐらりと揺らいだ。 明日誕生日を迎える下の弟のところには幼稚園に通う男の子が2人育っている。上の弟のところには三人目の男の子(おそらく)が生まれようとしている。平和な世界にしていかなければ。
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