たりたの日記
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2001年10月22日(月) 悪魔について

掲示板にマオさんから悪魔についての問いかけがあったので、それに応答して書いていくととんでもなく長くなってしまったので、掲示板で書く事はやめて、日記に持ってきました。
悪魔学の本を見かけたことがありますし、研究もされているのようですね。聖書の中にも悪魔は登場してきます。
基本的に宗教や宗派によって、何が悪魔かが違ってきますよね。神もそうですが。
原理イスラム主義の人にとっては、他の宗教は悪魔とみなされるわけですから、クリスチャンや仏教徒が悪魔になってしまうんですものね。
宗教や宗派で言われている神や悪魔の概念から一旦離れて、私の感覚で悪魔を語らせていただきたいと思います。けれども、私の場合、やはりキリスト教の世界の中で、聖書などを通じて得た悪魔観だとは思います。ただそれが神学的に正しいものとか、キリスト教の教義にかなっているかは分りません。あくまでも私の主観です。

イエスが伝道を開始する前に荒野で40日間、断食をした際に悪魔はイエスを誘惑すべく、さまざまな方向からアプローチをしますがイエスは悪魔に屈することがなかったという記述がありますが、その箇所から、悪魔がどのようなアプローチで人を神から引き離し、我がものとしていくかを知るてがかりになると思います。今度時間がある時にこの聖書の箇所を調べ考察してみたいと思いますが、今日は私が思っていることだけから書いてみます。

まず悪魔というのは聖なるものと敵対するもの、聖なるものを忌み嫌うものだと思っています。また神が生きて働かれるように、悪魔も生きて働いていると思います。人間の中には聖なるものもあれば、それと敵対する悪魔的なものも存在すると思っています。ですが、神が自分の姿に似せて人間を創ったのだから、神の中にも悪魔的なものが存在ししているという掲示板に書かれてあったkさんの考えには同意しかねます。聖書の創世記の初めに象徴的に書かれていますが、神は初めは人間のなかには罪、つまり悪魔的なものがない状態で創られたのだが、後に神に敵対する悪魔が(蛇という象徴を取っていますが)人間に働きかけ、人間はその働きかけを受け入れ潜在的な罪を持ってしまいました。ここで人間は聖なる神とは顔を合わせることも出来ない者となって楽園から出ていきます。しかし、神はイエスという全く罪のない、悪魔的なものの支配が及ばない自分の分身を、人間の歴史の中に投げ込み、人間が持っていた罪が赦されるチャンスを与えてくれました。それは、イエスを知ることで、何が神から来るもので、何が悪魔から来るものか、私たちが見極めることできるようにしてくださったということ。さらに、そのイエス故に、その悪魔的なものをかかえたままでその存在を許していただけるということ。なぜなら、その人間のなかに繰り返し起ってくる悪魔的なものを、十字架で流したイエスの血が繰り返し清めるから。

ではもうクリスチャンになれば、悪魔と縁が切れるかといえばそんなことはなく、悪魔はよけいに強い働きかけをしてくると思うのです。だから大切なのは自分の悪魔的な部分を認識することだろうと思います。悪魔は巧妙に、人間の中に存在する悪魔的な部分を利用するのですから。悪魔の目的は人間を神から、聖なるものから遠ざけることにあるんですから。
悪魔の働きを思い浮かべる時、まず思い浮ぶのはヒットラーです。悪魔は完全に彼を支配し、彼の才能や機会を有効に悪魔の目的のために用いたのだという気がします。彼を支持した当時のドイツ国民も悪魔の支配下に入れられてしまったといってもよいのではないでしょうか。誰もそうとは気がつかないうちに、神を語る場である教会でさえ悪魔の巣窟になり、そこに集う神の子であるはずの人間が悪魔の弟子に変えられることだって起こりうる。ナチスを許したドイツの教会がこのことに深く心を止め、そこから立ち直ろうとしていることを読んだことがあります。日本の教会やキリスト者も戦時中、あくまで軍部に反対し、投獄され人は少数で、多くは天皇を神とする流れに従いました。オウム真理教はどうでしょう。初めは聖なるところから出発したものが、悪魔からみごと乗っ取られて、言うなりに動かされてしまい、あのように卑劣なことをなす集団に変えられてしまったのでえはないでしょうか。

全く悪魔の手口は巧妙です。けっしてそれとは分らないように本来聖なる場所とみなが認める場所や正しいと誰もが信じる人をまず取り込もうとしているような気がします。また、人の成功や幸福も利用します。自分は正しい、これは間違いないと思う時、同時に悪魔も働きかけを開始するような気がしてなりません。悪魔から見入られないためには自分は神の前で徹底して無力であるといことをまず正しく認識すること、そして、自分に与えられている機会やチャンスは自分が優れているからではなく、神から預かっているものという認識を持つことだと考えています。誇るものは主を誇れとい聖書の言葉がありますが、これはことさら謙虚にふるまうというのではなく、自分の力や恵みを正しく知り、しかし、そのことで我と我が身を誇るのではなく、それを与えられたことの意味を知り、その持ち物を正しく用いるということだと思います。態度や物腰を謙虚にしても神を認めないという傲慢さを悪魔は見抜き、それを利用するように思えてなりません。

悪魔に今勝っていたとしても、次ぎの瞬間、悪魔の側に寝返ってしまうのが人間なので、悪魔との闘いは気をゆるめることができません。私たちはいつも死に引き渡されているように、いつも悪魔に引き渡されているのだと思います。
祈りは神との対話ですが、祈りはまた悪魔を拒む行為だと思います。祈る人に悪魔は取り入ることはできないのではないでしょうか。
悪魔のことはこれを機会にもっと深めていきたいと思います。私自信にとって、とても大切なテーマであることに書いていて気がつきました。


たりたくみ |MAILHomePage

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