たりたの日記
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2001年09月26日(水) 前期クラス終了

私がクラスを持っている英語学校は2期制を取っていて、今週で前期の授業が終了し、後期が10月より始まる。
昨日と今日の幼児とお母さんのクラスでは前回書いた通り、ピーナツバターとジェリーのサンドイッチを英語の説明をしながら、目の前で作って(作るというようなものではないが、そこはクラス、もったいぶって)みんなに食べてもらった。中にはきらいで食べられないという子もいたが、大方の子は
"It is good!"だったようだ。まおちゃんはミミのすれすれのところまで食べると「もういっかい、たべたーい」と、言っていたし、あすかちゃんと、あみちゃんは、ちょっぴりずつだいじだいじに食べていた。別のクラスのりょうたろうくんは半分を紙皿にくるんで、お父さんに食べさせてあげると持って帰った。英語の言葉もいっしょに記憶に残ってくれるといいけれど。

幼児は学習しようとか、覚えようとかいう気はさらさらない。また大人は覚えさせようなどと思ってはいけない。小さい子どもたちは体験が印象に残れば、そこにくっついてくる言葉も自分の言葉として取り込んでいくのだ。だから教師や親は覚えさせようなどという野心をむきだしにしては子どもにそっぽを向かれてしまう。そっぽを向く子どもはまだいい。大きい子がやるように早々とお勉強としての練習に従順だったりすると、逆効果になるとさえ思う。

言語学者の研究によると、子どもには自分が置かれている環境の言葉を、その複雑な文の構造や文法的なことまでそっくり自分の言葉とする潜在的な能力が備わっているという。日本人の子どもたちが2歳、3歳で英語なら中学生が習っているくらいの文を日本語で話している。それが日本語だから、私たちは驚きもしないが、苦労して外国語を勉強している大人がその国の幼稚園の子どもの会話能力に負けると、考えると大人と子どもの間に決定的な違いがあることが分る。この神様からいただいた幼児期の言語拾得能力を外国語にも適応できないかという研究はさまざまなところでなされているが、自国にいながら、外国と同様の環境を作ることは難しい。しかし、親が自然な形で外国語を使う場合、多少なりとも脳に自国語とは別の外国語の回路ができる。けっして、ぺらぺらに話すようにはならないが、短いフレーズが反射的に口を
突いて出てくるようにはなる。私はそれをひとつの回路だというふうに思っている。同じフレーズを繰り返し聞くことで、歌などに乗せて、繰り返し歌うことで、その回路をより多く作りたいと思っているのだ。

何だか固い話しになってしまったが、なぜ英語なのか。
将来、学校で良い点を取るためでもなければ、良い仕事に付くためでもない。
日本人以外の人と意志伝達をするためだ。今やアメリカ人やイギリス人と話しをするためではない。すぐ隣の韓国の人とも、中国の人とも、英語を媒体にして意志を通じ合わせることができる。英語がよその国の言葉という概念をまず捨てたい。英語は私たちの言葉でもある。決して借り物なんかではないのだ。この人類の共通の便利な道具をみなが、自分のものにしてしまうのである。
日本語っぽい英語あり、ドイツ語的英語あり、中国なまりの英語あり、自国の訛りを気にかける必要はない。ネイティブのまねなどする必要はないのだ。しかし、自分の考えが伝えられること。
道は果てしないが、、、


たりたくみ |MAILHomePage

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