たりたの日記
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2001年08月06日(月) |
ここに書くということ |
自分の中心のところは少しも変わらないのに、そしてどこでも、いつでも、それだけを持ち歩いているような気がしているのに、違う空間で、違う日常をわずか10日かそこら過ごしただけで、意識のつながりのようなものが途切れる感じがする。
私の実家で私は母のよく知る私になるし、夫の実家では夫の家族がよく知る私である。そしてそれは外からではいつもの私と変わらぬ私であるらしい。いっしょにいて私を見ていた息子は私の言葉に方言が混じり、夫の家では私がいくぶん気を遣ってたというほどの変化しか気づかなかったようだ。ところがこうして私の日常に戻ってみると、どのように私が違う気分でいたかが分かるのである。何か飢える感覚があった。どこかほんとうの私が居場所を見つけられずにうろうろしていた。書くことをしなかったから私が本来の私に戻る時のないまま、朝が夜になり、また次ぎの朝が始まったのだ。
書くことを止めてみて、私にとってそれがどういうものだったかが少し見えてくる。私にとって書くという、ここに書くという行為は人と対する時に無意識に着てしまう「服」を脱いでしまって素の私になることなのかも知れない、それも誰も見ないところでそうするのではなく、わざわざ人の中で素の私をさらそうとするのである。
私は銭湯とか温泉とか好き好んで行くが、お湯にはいくらも浸かれない。お湯が好きというよりは公然と裸で過ごせることが好きなのかも知れない。そこに他人がいるのに、何も装わずにいることのできる私があって、そういう私自身が心地よいのだ。ここに書くこととどこか似ているような気がする。
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