たりたの日記
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十字架の上で処刑されたイエスの体は、数人の弟子たちによって、十字架から下ろされ、香料を入れられ、亜麻布でくるまれ、その近くにあった園の真新しい墓に葬られた。十字架の上での壮絶な闘いが終わり、イエスが去った。すべてが終わった。その時、それまでイエスと共に寝起きし、イエスをのみ頼りにしていた弟子たちの胸の内はどのようなものだっただろう。信じてきたものがガラガラと音を立てて崩れていったのだろうか。神の子としてではなく、ひとりの人としてイエスを愛してきた者はその人を失った激しい悲しみの中に、あるいは喪失感の中にあったのだろうか。しかし、聖書を読む限り、誰ひとりとして、イエスに再び会えるなど、思ってもみなかったことがうかがえる。 ところが、3日目の朝、まだ暗い内に、イエスの墓に行ったマグラダのマリアは墓の石がとりのぞいてあるの見る。イエスの死体まで取り去られたことに彼女は取り乱したことだろう。私だったら叫ぶだろう。ののしるだろう。激しい喪失感の襲われることだろう。しかし、イエスはそこにいた。死んだものとしてではなく、蘇った存在として。はじめマリアはそれがイエスであることに気づかずに泣きながら訴えた。「もしあなたが、あの方を移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞおっしゃって下さい。わたしがその方を引き取ります。」その時、イエスはひとこと「マリヤよ」と言った。マリアはその声に胸を突かれてふり返り、「ラボニ(先生)」と叫ぶ。
子どもの頃から、イースターの話しは不思議な話しだった。イエスは死んだのに3日後に生き返ったというのだから。不思議ではあったけれど、ファンタジーの世界に日々生きている子どもの頃にはすてきな話しには違いなかった。 思春期のころイースターの箇所で心にとまったのはこの「マリヤよ」と声をかけるイエスと、振り返って「ラボニ」と叫ぶという、この場面(ヨハネによる福音書20章)だった。聖書にはマリアが叫んだとは書いていない、しかしわたしにはマリアの叫びが聞こえたしその時のイエスの深い眼差しもマリアの絶望が歓喜へと変わる嵐のようなその時の想いが見えた。 十字架のことも復活のことも聖書はどこも、かすみがかかったようにおぼろげにしか見えないが、ある時ある瞬間に、その場面が強烈な真実を伴って見え、刻印を押されたように心に焼き付くことがある。 ここしばらく、そのような聖書からの働きかけがないまま、文字だけを追ってきたような気がする。眠っていたのだ。 今年はもっと生々しく魂が動くだろうか。 復活の日
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