たりたの日記
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2001年04月04日(水) 入学式

大学の入学式、息子といっしょに出かけはしたものの、彼はすでにオリエンテーションで意気投合したという仲間5人と待ち合わせをすることになっているらしい。「お母さん、混ぜてなんていわないでよ。」と釘をさされる。混ざろうとは思わないけれど、ドイツ人やらフィリピン人やらシンガポールで生まれて育った日本人やら、何ともおもしろそうな連中を見てみたいと思っていたのに、、、。

新入生2500人、父母も同数だとして、5000人からの人間がホールにぎっしりと詰まっている。息子も側におらず、知った人がいるはずもなく、ひとり端の空いた席を見つけて座る。ステージではすでに、管弦楽部による演奏が始まっていた。やわらかでのびやかな音だ。

やがて白いローブを着たカトリック指導部長がステージに現れ、祝福の祈りをし、在学の男子生徒によって聖書の朗読がなされた。

マタイによる福音書13章3節から9節と19節から23節。
「、、、、、ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい。、、、、」

若いまっすぐな声が2000年前のイエスが語った言葉を伝える。
5000人もの中で、そしておそらく初めてイエスの言葉に触れる人が大半だと思われる人の中で、聖書の一節が読まれることにおののきを覚えた。

再び指導部長が登場し、この聖書の言葉がおひとりひとりにどのような意味を持っているか、しばらくの間黙想して下さいという呼びかけがあり、その間学生の聖歌隊により、アッシジのフランチェスコの祈りの言葉が歌われていた。会場がひとつに統べられていくのが感じられた。知らない人の中で居場所の定まらなかった私だったが、その時その場がむかしから馴染んできた私の世界に変わった。

外国人の学長は式辞の中で、交流のあった安部公房の言葉の「存在の故郷」ということを主題に話をした。
「誰もが存在の故郷を見つけなければなりません。そこでこそ、その人がその人らしく生きることができる。そして今日はそれぞれが自分の存在のふるさとを捜す旅へ出る旅立ちの日です。」

その言葉を私はこれから学び始める学生となって聞いていたような気がする。言葉が消えていかないように、プログラムの端に走り書きをしながら、自分の時のことを思い出していた。入学式がどういうものだったかは少しも覚えていないが、その時の気分は妙にはっきりと覚えている。しらじらとした気持ちだった。思わず泣いてしまった。親元を離れたい、生まれた町を出たいばかりに中央の大学を志望していた。そのために受験戦争に加わり無意味だと思いながら砂を噛むような勉強もした。その結果は惨敗。結局、親の望みどうり地元の国立大学へ進むことになった。

入学式の日は夢が無惨に破れたことを改めて知らされた。親や土地に縛られる大学生活がただただ無念に思われた。そんな失意のスタートだったが、しかし、私はそこでいくつかのかけがえのない出会いをすることとなる。聖書の学び、人生の伴侶との出会い、教育学、音楽、そして斉藤喜博氏の教育理念の上に立つ教授学の会・・・今も続いている友人たちとの出会いもある。知らず知らずの内に私は自分の「存在の故郷」を訪ね歩き、そしてその入り口を見い出したのだった。


式が終わり、出口近くで息子に会うと、彼の新しい友人たちを紹介してくれた. "Nice to meet you! " ひとりひとりと握手をかわす。

どうぞ、彼等が自らの存在のふるさとを見つけることができますように、彼等の学生生活の上にあなたの祝福を祈ります。


たりたくみ |MAILHomePage

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