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2006年11月08日(水) 理解は語られるのではなく、示される

 私たちは普段から当たり前にいろんなことをわかっていて、それは決して、意識したり、語られたりしているわけではない。もちろん、意識したり語ったりする場合もある。でも、それは特殊な一例と考えた方がよい。

 例えば、母親に喜んでもらおうと思って花をいけようとしたところ、逆に母親が大事にしていた花瓶を割ってしまった子どもを思い浮かべてみよう。涙をうかべて複雑な顔をしている子どもに「あなたの気持ちを理解したわよ」と伝えなくても、母親は、ただニコッと微笑むだけでよいかもしれない。それで母親の理解は、子どもに示されるかもしれない。

 反対に、「口にだして言わなくてもわかるだろう」とタカをくくっているうちに、恋人に愛想をつかされる男性というのも聞いたことがある。この場合は、愛情は言葉にしないと伝わらないものだったということになる。いくら「あなたは大事だよ」「あなたのこと愛してるのよ」といわれ続けても、そのたびごとに寂しさを増し、居場所がなくなっていく関係があるというのも同様である。

 要は、なにが「理解を示す」ことになるのかは文脈のなかで決まる。というわけで例えば、子どもの問題への「理解」に求められるのは、他者に「理解した」と認めてもらえるような何らかの行動様式であるともいえる。子どもの問題がなんなのかを頭でわかることでは必ずしもない。暖かい心とか、深い愛情とか、あまり関係がない。わけがわかってなくても、とりあえずできればいいという場合も、ある。


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