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教育心理学会では、K君企画のシンポにでました。当日は残り時間もなかったし、すでに立派なコメンターがおっしゃったことと同じことのように思えたので(などと理由をつけつつ)黙ってたんだけど、そのままにしておくのももったいないので書いておきます。
全体としてはフィールドワーク研究って何の役にたつのか、とりわけ、学校現場でのそれってどうなのかということをめぐって議論されたのだと思います。学校のなかにフィールドワーカーが入ると、現場にある、互いに相容れない二つの見方があることが見えてくるように思います。今回のシンポでは3人の発表者ともにその見方のあいだにある対立を、どう埋めるかという作業にとりくんでらっしゃるように見えました。
KMさんは教室で友だち関係がうまくつくれず、大人であるフィールドワーカーにべったりと依存してくる子どものことについて話されました。そのなかで子どもへの個的な関わりと、集団的な関わりとの対立に直面し、それをどう埋めようかと苦心した結果、教師が実践している「標語」がもつ深い意義についてあらためて理解することとなり、教師のこれまでの努力を承認することで、その対立をうめようとされていたのかなと思いました。
KYさんは、子どもに上手く教えるべきだという専門家集団がもつ規範と、しかし、それはできないという個人的なあり方とのはざまで「個人的失敗」とでも言えるような葛藤を経験していたようにみえました。この失敗の感覚を、フィールドワークというものが(ある程度、実践家が直面している切迫性から距離をおくものであり、それだからこその価値があるといったような)価値をもつことを再確認することでうめようとしておられたのかな、と。
Hさんは、ある社会的な困難に直面している場におもむき、その子のできることしかできないから、それにつきあうしかないという見方と、それでも力を伸ばしてあげなければならないのではないかという見方との間のギャップに引き裂かれつつ、その両者の関係を自分自身がもっとよく理解しようとすることで解消しようとされているようにみえました。
いずれにしても、こういう3人の抱える相容れない対立にまきこまれている感じというのは、学校という場がもともと、自然にまかせていてはできないことをやろうとして人々が作って来た制度だからかもしれないなと思います。そのような場にあってフィールドワーカーの貢献とは、直接的な知見としての貢献というよりも、自身が体験する葛藤を、自らのなかで統合していくことにより、対立に巻込まれつつも、ゆるがないような、そういう自らの新しいあり方を身につけることなんじゃないかと、そのように常々思っています(拙著にも書きましたが)。
とりわけ論文を書くことは、その「あり方」をあらわしていくうえで、とても重要な方法なんじゃないかと思っています。論文を執筆していると、これまでフィールド内にあって、外側から観察する対象であった「相容れない対立」は、今度はフィールドワーカーと、想定される読み手との関係にひきうつされてきます。いわば相容れない対立の当事者となる。そういうフェーズが研究にはあると思います。
ここで「相容れない対立」をあわてて解消しようとして、書くことを止めてしまったり、新たに現場の当事者になってしまったりするのはよくないなーと思います。現場の人は、なんらかのかたちで自ら協力したものが形になることを望んでいると思いますし、と同時に、研究者に現場の人になってもらおうとも思っていないわけですから、、。書き手は、読み手にわかってもらうように自らの経験を意味づけなおす必要に迫られ、相手に伝わる表現をみつけることに迫られる。そういうなかで「あり方」ができてくるんじゃないかなと思うのです。
そういう意味で、フィールドワーカーがどう役にたつのかということを考えるとき、フィールドワーカーの経験は、それをいかに書くかということと切り離しては論じられない。書くという行為と、フィールドワークの経験、そして自分の認識の深まりとの関係についても考えていけるといいのかなーと、いまはそんなことを思っています。
9月30日に名古屋で話すことのヒントをもらえたようにも思えました。企画してくださったK君、登壇されたみなさん、ありがとうございました。
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hideaki
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