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2006年06月04日(日) 高木光太郎(著)『証言の心理学ー記憶を信じる、記憶を疑う』@中公新書

御恵送いただきました。ありがとうございました。

著者は、ここ10年以上にわたって心理学者として裁判にかかわり、自白の信用性鑑定をされている方。この鑑定にかかわるグループでだされた本には『心理学者裁判にあう:供述分析のフィールド』北大路書房がある。前書では社会構成主義、スキーマ分析などときおり難しい理論がでてくるのだが、本書では(内容的に値引きされているわけではないが)平易な文章で書かれていてわかりやすい。前書とあわせて読むといっそうの理解がえられるのではないだろうか。

本書は「記憶/証言」という現象を、三つの視点を補助線として描き出そうとする。ひとつは「記憶の脆さ」という視点、もうひとつは「ネットワーク化する記憶」という視点、そして最後は「正解のない世界」という視点である。

数多くの心理学実験が、人々の記憶がいかにあてにならないものかを明らかにしている。エリザベス・ロフタスらがおこなった、情動が記憶を歪曲させるということについての実験は有名だ。幼少時の虐待の記憶を、精神分析治療中に突如として思いだし、親を訴えてしまったという事件がアメリカでおきた。この事件を端緒として「偽りの記憶」といった言葉が実験心理学の世界でも真面目にとりあげられるようになった。

このような記憶の脆さは人々をそれほど驚かさない。記憶が脆いことのゆえに、人々は自らの記憶を、外部とのネットワークに求めようとする。

自らが思いだせないものを外部にあるモノや人との関係において把持しようとすることが私たちはしばしばある。著者は直接はふれていないが状況的学習論が教える、人の賢さとは、個体内に蓄えられた知識ということよりも、むしろ他者とのネットワークに開かれているということである。

ただし、この他者やモノとの相互作用によって保たれているという記憶の性質が、ときに記憶を歪ませる原因にもなる。例えば、日本でしばしば用いられる「写真面割り」といった手続きが、犯人を捕まえたいという捜査員の情熱をこえて、捜査員がそうだと思う犯人を、自己成就的に目撃者の記憶を歪ませ、結果として冤罪の構成に役立ってしまうということがあるという。

証言の場とは「正解のない世界」である。記憶実験において、過去の記憶が歪んでいることを知ることができるのは、実験者が正解をしっているからだ。ところが、わたしたちが生きる世界にそのような存在はない。実験によって一般的に、確率論的にこうなる傾向はあるとはいえても、それが実際に目の前のこの人の証言が信用できるのかいなかということには結びつかない。そのような外的基準による評価と、目の前のこの人の記憶に関する信用性とのあいだには断絶があるということだ。

このようにして著者がとるのは、証言の信頼性を、外的基準との関係によって評価することではなく、証言内在的に、被疑者の「内側から」みえる世界にとことんこだわっていこうという方法である。被疑者が何度となく検察官の前で証言する、その語りの通時的な一貫性と、つかの間あらわれる揺らぎとをみようとしたのである。

著者は証言という場を、濁流にながされた人が、溺れないようにもがく様としてとらえている。裁判という濁流にのまれ、取調官という水の圧力を感じながら、それでも奇麗なフォームで泳ぐ人もいれば、そのままジタバタと手足を動かして、そして力つきてしまう人もいる。このような固有な運動様式を「スキーマ」になぞらえることができる。

著者らは、このスキーマ分析を携えて、正解のない世界において、本来的に脆いものである記憶を相手にしつつ、証言の信用性を真摯に問うていこうとする。このような著者らのアプローチに、私は強く共感を覚えるところであるが、こうした鑑定が、まだまだ世間の了解を得にくいのも事実である。裁判員制度が導入されようとする現在の日本において、本書で展開されるような証言に頼った裁判制度のあやうさが、現実の悲劇となる可能性は大いにあるように私には思える。

その意味で、著者らの問題意識を知り、共有する人々が増えてくれることを切望する。


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