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2006年02月13日(月) 『問題を語るのか、語るのが問題か、それが問題だ』


 ひとつのエピソードを紹介しましょう。もちろん、要点を損なわない程度には改変しています。ある教員研修で私(講師です)は、「日頃、困っていること」についてディスカッションを行いました。あるベテランの生徒指導教員は「最近の親は子どもの問題行動を、問題と認識してないのが困る」と言いました。例えば、こういうことです。生徒が金髪にして学校にくる。当然、学校では指導の対象となる。けれど、両親はそれほど重大な問題とは思っていないし、そもそも何が悪いのかピンと来ていない人もいる。これは困るというのです。その後のディスカッションは「では、親にどう説明したらいいのか」という話題になりました。ところが、つきつめて考えていくと、その場にいた誰もが、「ともかくダメだ」ということでは一致しているのですが、明確な根拠を示すことができなかったのです。これでは親に問題性を理解してもらうことはできそうにありません。
 もうひとつ。私がスクールカウンセラーをつとめていた、ある中学校での体験です。登校してみると、これまでポツリポツリと相談室に登校していた生徒のことが、職員室で話題になっています。聞いてみると、ことの顛末はこうです。
 その生徒は、家は定刻にでるものの、公園でウロウロしていたそうです。それが発覚し、担任が注意したとのことです。注意した後、担任は不満顔です。彼が校則違反をしたから、ではありません。理由は、彼の問題が発覚したいきさつにありました。というのも、発覚したきっかけは、匿名でかかってきた付近に住む主婦からの電話だったのです。担任にしてみれば「近くにいるなら、大人として、自分たちで声をかけるとかしても良いじゃないか」と思えたそうです。地域の大人たちも、子育てに参加してほしいというメッセージです。もっともな意見ですが、当時は、普通の少年が突然にキレることが話題になった頃でもありました。大人たちが他の生徒にうかつに注意できなくなっていたのです。確かめたわけではないですが、上述の主婦にもそのような不安があり、ちゃんと対応をわかっている先生にやってもらうべき問題だと思ったのかもしれません。
 上記の2つのエピソードから示されるのは、何がどのような理由で問題なのか、誰がその問題に対して責任をもつべきなのか、実は、私たち大人の間でもそれほど合意されず、ズレているということです。これらのズレは、しばしば単なるズレには留まりまらず、双方への不審感をつのらせることにつながることがいろいろなところで報告されています。みんな自分がとらえる「問題」こそが正しいのだと信じてゆずらないということでしょう。このことをふまえれば、今回のテーマのように『現代青年が抱える心理的諸問題とは何か?』と考え、客観的に、正しい答えを探そうとする私たち青年心理学者は、「問題」をややこしくする張本人かもしれません。
 では、どうすればいいのでしょう。私にも答えはありません。ただし、次のエピソードはヒントになるのではないかと思っています。ある中学校の校長先生のお話。その学校は以前にいわゆる「荒れ」を経験し、そこから徐々に立ちなおってきたという歴史をもっていました。当時、保護者からは頻繁に学校の対応を批判する声が寄せられました。教師もまた保護者の対応に不満を持っています。互いにズレていたのです。そこで校長先生が双方に訴えたことはただひとつ、「みんなで子どもをよくしていこう」ということでした。「問題」のとらえ方も、対処も人それぞれ。でも、お互いが「子どもを善くする」もの同士だと信頼することで、協働し、結果として学校はたちなおることができたというのです。
 ここで何がおこっているのでしょうか。少なくとも問題をつきつめて分析することではなさそうです。


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