I create you to control me
DiaryINDEXpastwill


2006年01月30日(月) 翻訳の失敗としての、ナラティブを聴くという行為

ある方がアセスメントと翻訳の共通性について述べていらっしゃった。翻訳といえば、酒井直樹(著)『日本思想という問題ー翻訳と主体』岩波書店である。

私たちは、しばしば翻訳という行為を、ある言語からある言語への橋渡しとしてとらえがちである。しかし、翻訳という行為に先立って、2つの言語体系を策定することは、果たしてできるのだろうかと著者は疑問視する。むしろ、翻訳という行為は、伝達の失敗を契機として、それにもかかわらず<伝えー聞く>という関係性をもとうとすることのなかに成立している。

酒井氏は、ところが、この翻訳という行為は、しばしば、翻訳が完成した時点からさかのぼって、翻訳が完成する前の状態を仮想してしまうのだと主張する。そこが問題なのだ、と酒井氏はいう。

方言と共通語という言葉がある。方言は、純粋な「共通語」の変奏であるとうけとられる。例えば、現在でもときどき沖縄や東北地方の人がしゃべっている言葉がテレビに流れ、それがまったく理解不能であることがある。そのときテロップがでて、それがどのような意味内容であるのか伝えられることがある。つまり、共通語に翻訳しているわけである。これをもって私たちは共通語と方言がおなじ日本人の言葉だということを自明視する。

しかし、方言と共通語というものが昔からあったのではない。明治時代に政府が近代的な統一国家をつくろうとした際、「共通語」を制定し、これをもってそこからのズレとして多くの方言が同時に誕生したとみるべきである、という議論がある。歴史的にみれば順序が逆であって、中央集権的な国家ができたことによって、周辺にいる人々の個別で独特な行き方が、一種の「偏り」として認識されたというほうが正しい。そこにどんな権力関係が働いているのか?と考えてみなければならないということになる。

アセスメントにおいても同じことがいえる。アセスメントは「同じ人間だ」と思っているその人(クライエントとか患者といわれる)の体験がどうにも了解できないという体験が先にあり、それをなんとか理解しようとして関係をもとうとするという行為のなかにあるというべきだ、ということになる。

つまり、アセスメントというのはクライエントや患者の了解不可能な経験の言葉と、私たちに了解可能な病理や、障害の言語との「接続」では、ない。それは順序が逆になる。そして、それが「接続」であると理解されるところには、日本が統一国家になった時と同様に、中央と周辺を同時につくりだす権力作用があったと考えることができる。アーサーフランクがnarrative surenderという言葉で言おうとしていたのは、まさにこのような診断についてまわる権力性のことだろう。

幸いなことに翻訳には、翻訳しきれないことというのがある。つまり、「英語で○○という言葉は、日本語では△△と訳されるけれども、実は、もっと多様な意味があって、その言葉が話されている文化的背景をもちこんで理解しなければならない」という議論である。narrativeを聴くという行為は、だから、安易に成立してしまう翻訳(状態=病理)を撹乱する試みといえる。


INDEXpastwill
hideaki

My追加