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2005年07月12日(火) 当事者、当事者いうけどさあ

昨日の書き込みについてよく考えてみると、それはナラティブについてしばしば言われていること。すなわち

「ナラティブにおいて真偽は問題ではなく、その当事者にとっての意味が問題にされる」
「正確性、客観性よりは、もっともらしさ(plausiblity)」

といった事柄が、そのまま当てはまるのだということに思いいたった。ということは、私は古い決着のついた話を蒸し返しただけかということになるのだろうか。

でもさ「当事者の視点にたって、そこからの意味をとらえる」って難しい。
いや、時間がかかるとかそういうことではなくて。

当事者の視点にたつといっても、まるっきり当事者になることはできない。よりましな方法で当事者になりかわらざるをえない。会話分析では、研究者が記述した社会的規範は、研究者のつくりごとではなく、まさに当事者たちがそのように使用し、参照しているものを記述しているのだという建前がある。がしかし、これもいわゆるデュルケイム的研究といわれるものに比べればという話であって、それそのものとしてそうだということではない。

例えば、コンマ何秒間におこるみぶりや、「あっ」というような言い間違い、ちょっとした言いよどみから、精緻な分析が試みられるという場合、そのほとんどが当事者たちにとって、少なくとも意識的(言語化されるという意味で)には把持されているとは思われない。だから研究者が「そう見える」といった時に、誰がそれを訂正できるんだろうかというのが疑問である。

わたしたちはしばしば、「○○という問いをたて、△△というように現象を見ることでメリットがある」、のならばそれでよいという態度をとりがちだ。けれども、それでいいんだろうか。それじゃあ声の大きい人が勝ってしまいそうだ。

かといって声の小さい人の言葉というのは、小さいだけあってみんなには通じにくいのだ。なんか感情的だとか、よくわからんとかいって声を失ってしまう人の視点からものを考えようとすれば、おそらくその結果への、多くの人の依拠可能性は低まるだろう。政策決定などに使えそうもない。


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