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| 2005年02月25日(金) |
入試・責任・ナラティブ |
朝から大学入試の試験監督。さいわい今日は比較的暖かい日だったので受験生も助かったことだろう。この教室のなかから、4月には、どれくらいの人と会えるのだろうかね。
明日はシンポ。しかし、今日になって発表者の1人が風邪でダウンの報。「這ってでも行きます」と、ありがたいような申し訳ないような、なんとも言えないお言葉をいただく。研究者たるもの講演先で倒れる覚悟をしていかねばならんちゅうことか・・・。ODの頃、熱でてるにもかかわらず2時間かけて非常勤先いったのを思いだす。
おお、発表といえば、来月のナラティブ研で発表することになった(前からわかってたんだけど)。去年の発達心のときも、前日に質的心理学会の立ち上げ集会があり、そこから学会発表と続いて相当ハードだったのだが、今回もそうなりそうな勢いである。
立ち上げ集会では、質的研究の書き方を教えるなどという身の丈を超える仕事をまかされて非常にてんぱってしまったが、今回も御大M先生と一緒に、「臨床心理学とナラティブの関係」について話せというお達し。臨床心理学なんていうのは、研究だけできてもダメで、実践もできなければならないハズなのだが、実践というのは、そんな一朝一夕にうまくなるものでもなく、まだまだ若手の僕には荷が重いわけである。
まあ、そんなこと言っていてもしょうがない。やれることからやるしかないか、と。
で、以前から言っているように、ナラティブという発想は心理学においてすごいインパクトを持っている(た?)とは思うのだけど、ナラティブという発想自体が非常に臨床心理学の根幹をゆるがすような発想が含まれているわけで、僕が臨床心理学のなかで安易にナラティブが受容されていると違和感をもつのも、そういうところがひっかかっているわけである。しかし、それを突き詰めていこうとすると、ではセラピーとは一体なんなのか?どんな権利があって人の悩みをあれこれするなんてことをやろうとしているのかという問題につきあたってしまう。ガーゲンが中途半端になったのもまあ実践的であろうとすればしょうがなかったのか、というふうにも思えてくる。
その問題がひとつと、もうひとつはナラティブという発想をすることで、なんちゅうか人間のもつダイナミカルな側面がどうもなくなってしまうような気がする。語り、語りといわれるけれども、語られないことが見えているからこそ、人間は語られたものに迫力を感じたりするのではないかしら。そこに、なにかしら「生きている」ということが体験されるような気がするのだ。野口英世の母のシカの手紙や、ドハティらの『治療に生きる病の経験』などを読んで、僕らが圧倒的な迫力を感じるのは、おそらくそういうところではないか、と。
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