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| 2005年02月13日(日) |
社会的な構築物だ、というのは間違い(誰にとっても) |
社会構成主義的な科学論としてラトゥールの『科学がつくられている時』をあげて戸田山先生が批判している。いわく、彼らは科学者のやっていることを、まるで呪術師のふるまいかのように観察している、と。そして、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー科学者のやっていることは呪術師の振る舞いのように奇妙なことに見えるかもしれないけど、その奇妙さはたんに、自分がよく知らないからであって、科学者に説明してもらえば、わりと簡単に解消するはずのものなんだよね。けれども、彼らはあえてそれをしない。なぜだろう。科学者が本当のところ何をやっているのかを知りたかったら、科学者に聞いてもよさそうなものだ。 (・・・それはなぜかと言うと・・・) 科学的事実は全て社会的構成物だということをあらかじめ前提していると思うんだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というのである。別に社会構成主義を全面的に擁護しようとしているわけではないのだけれども、どうも、戸田山先生の以上のような言い方には違和感がある。
どこがかというと「科学的事実は全て社会的に構成されている」という言い方である。このような言い方をラトゥールがしているのなら、それは間違いだと思う一方で、そうでないのだとしたら、それは戸田山先生が都合よく彼らの主張を要約してしまっただけだと思う。
思い出されるのは、言説心理学のことだ。デレックエドワーズは「記憶とは脳内に貯蔵された痕跡ではない」と批判したうえで「記憶とは言語行為である」といっている。これに対してエスノメソドロジストのジェフクルターは「痕跡ではなく、言語行為である」といってしまった瞬間に、エドワーズは心というものが実体としてあるということを言外に認めてしまっていることになるのだと批判している。
クルターいわく、心とは人々の相互行為による「達成」である。だから、心を言語行為と等置してしまうのはまずいということなのだ。
社会構成主義の人たちは、しばしばそれ以前の理論(例えば記憶、科学的事実)についての実体的な見方を覆そうとするがあまりに、「説明Aでなくて、説明Bだ」というような語り方をしてしまう。これが誤りのもとだ。これではAとBは内容的には同じということになってしまう。
そういう言い方にのっからずに、そもそも「説明Aでなくて説明B」式の語り方ができないものなのだと言うべきだったのだ。だって社会構成主義の人たちが本来やりたいのは、記憶であれ、科学的事実であれ、<いまーここ>において、その存在を疑えないほどに「ある」としたら、それはどんな過程をふんでそうなのか(別の有力な説明もあったし、なにも今じゃなくてもっと前(あるいはもっと後)に発見されてても不思議じゃないし、発見がもっといちゃもんつけられてもよさそうなものなのに、なんでこんなにスムーズに確認されたのかetc)を明らかにすることであろう。
科学的な事実であっても、その存在がもはや疑いえないようになっている現在からさかのぼって過去の科学的事実の探究プロセスをみたならば、もちろん戸田山先生のいうように「科学者に説明してもらったほうがはやい」に決まっている。しかし、そういうことがやりたいのではないのだ。
社会構成主義者は、客観的に疑いえないほどに立証された科学的事実というものを担保にして、そこから巻き戻し再生するように、科学の生成過程を説明しようとする従来のやり方は、間違いではないとしても、科学的事実が発見されているまさにその瞬間には、使えない戦略だということが言いたいのだろう。だから「呪術師がみるように」な記述も必要になるのだ。
まあ戸田山先生のいうとおり、社会的構成というのは自明の前提になっているかもしれないが、それは上記のようなことをやりたいがための戦略であると僕は理解している。そして、これは普通に科学者が主張していることと一切矛盾しないと思うのである。
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