I create you to control me
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あるMLで、この前の研究会でご一緒した阪本さんが発言された。その発言は割愛するが、とりあえずなにかとても大事なことをいっている気がしてとても考えさせられた。で、考えたこと。
最近、「質的研究」の発表で、時間をかけてひとつのものをじっくりと検討するというのは捨てたもんじゃないなと思いなおしている。大学院に入ってからというもの、毎週のようにケース報告をして、2時間、3時間をかけてひとつのケースについて議論するということを繰り返してきた。
そこでまず資料が読まれ、ついで議論が行われる。以前の僕には、この、資料が読まれるということの意味がそれほど重要でないと感じられた。たしかに「読み上げるその人の声音が違う」といわれればそうかもしれないが、それは一体自分のなかでどう位置づけてよいかわからなかった。これは僕だけに限らず、新人には共通することだとも思う。
しかし最近、とくにそれは大事だと思うようになってきた。ケース記録を単なる情報ととらえ、それを伝達するという目的に限定するのならば、資料はかいつまんで話したほうがいいし、分かりやすさを考えてできるだけキャッチーに書いた方がいいに決まっている。
だが、そうではないのだ。ケース会議でおこなわれていることは、その場でケースの意味をたちあげるということだ。自分がまとめた資料を、読み上げるという行為を通じて、時間的な冗長性をともなって<いまーここ>にケースの意味がたちあがるということ、このことが大事なのだ。
そこではケース発表者と、聞き手との単なる情報のやりとりがあるのではない。ケース発表者と、聞き手が、その場によみがえらせられたケース(なにか魔術的なイメージもあるが)をはさんで語りあうというところに意味があるのだ。
研究者が現場に役立てるというのも、おそらくこうした「ケースをたちあげること」を、現場の人とのあいだでつくりだせるかどうかということではないだろうか。それは現場について何か発見するということよりもずっと時間も労力もいることに違いない。質的研究に時間が必要なのは、発見するためではない。
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hideaki
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