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| 2004年10月31日(日) |
青年心理学会の2日目 |
『青年期の創造性:その羨望の力をめぐって』という題目で九州大学の北山修先生のご講演。
以下、記録 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー まず「うらやましい」という言葉のもつ意味について。「うら」は心、「やまし」は病むという意味である。「うらやましい」という感覚についてメラニー・クラインは『羨望と感謝』をあらわしている。クラインがどうして「羨望」などというものを概念化せねばならなかったか。それは、ある種のクライエントには、治療がすすめばすすむほど良くなることとは正反対の方向にむかってしまう人がいること(これを精神分析では「陰性治療反応」という)の理解をせねばならなかったからである。
羨望は「うらやましい」ので、その対象になるために努力するという肯定的側面をもつ一方、犯罪、いじめにもつながるという破壊的側面ももつ。サリエリがモーツァルトをねたんで毒殺しようとした時、彼はモーツァルトの才能に羨望を感じていたのだ。
だから羨望は、その処理の仕方が問題になる。ひとつは過小評価である。例えば、「すっぱいブドウ」の物語にあるように、大したことないと価値下げする方法である。境界例の価値下げの問題もこれに関係することがある。もうひとつは、自己卑下であり、自分には「とても手が届かない」といってあきらめることである。
ところで日本では「出る杭は打たれる」というように、うらやまれ、嫉妬されるのが怖いという文化がある。それは、自分の感じている羨望が、他者から自分にもむけられる可能性について考え、それを恐れているのである。
もちろん肯定的側面もある。それは「創造的羨望」であり、うらやましいと思うなら創るということである。では、これはどのようにして可能か?。それは自分の「羨望」を認めることから始まる。まず患者のことではなく、自分のことを知るのである。なにか患者に阻害的なことをしているとしたら、それは自分の「ウラの病」、すなわち、「うらやまし」なのである。 フロイトもまた、過去の文献を参照すると、羨望が彼の創造性につよく影響を与えている。彼は芸術家と同じことをしようとし(つまり、「ああ、なりたい」と思い)そして、長年苦労して自分がやっと記述できるようなことを、どうして芸術家たちはいとも簡単になしとげてしまうのか、そのことに疑問を抱いている。そして、芸術家をこきおろすのである。科学者も芸術家も同じことをやっているのだが、われわれはとても時間をかけて努力している。だから偉いのだという主張である。
しかし、フロイトの羨望はまったくもたなくてもよいようなものであった。臨床家と芸術家は根本的に違う。それは、マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションの差ということができる。すなわち、芸術家が創ればほんの少しの時間で終えてしまうようなドラマをつくるために、臨床心理学者は退屈でおもしろくないクライエントの話を、それこそ何十時間もの時間をかけて聴こうとする。それは、あったことのない第3者に対して語るのではなく、ただ1人、私のクライエントに喜んでもらいたいためである。前者は3者関係。後者は2者関係。これはまったく違う営みであって比べられない。
研究者もまた3者関係での苦しみを抱いている。すなわち2者関係で、クライエントと接して得たあのよろこびが、3者関係にしようとおもって論文化した瞬間にまったくおもしろくもなんともない話になってしまうことを我々はしばしば経験する。スーパービジョンの経験しかりである。それは、なかなか伝わらない。
しかし、私たちはそれよりも3者関係にいたるまでの2者関係を味わうというところにその重点をおくこともできるし、それが我々の問題なのだ。この2者関係ではおもしろいのだけど、3者関係にすると面白くなくなってしまうというこの感じ。そして、上手く伝えることができないというこの感じは、実は、クライエント自身が社会にいきていくうえで抱いてきたつらさでもあるのだ。
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