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質的心理学会の読書会に出席する。 正直、質的心理学会、発達心理学会などめじろ押しでバテバテの感は否めず、今日もなんどもくじけそうになりつつ出席した。読んだのはSaldanaという人の縦断的な質的研究法に関する本。 僕は第6章の担当。このサルダーナという人。質的研究といいながら、要因同士の相関とか、相互連関とか、かなり発想が量的である。図表も「発達はリニアーな増加などではない」とかなんとかいいつつも、直線で表現してみたりして。違和感バリバリである。 しかし、読書会自体は、サルダーナの議論を叩き台として、「ある」と「ない」との関係や、時間概念の多様性など、けっこう面白い話が展開された。 やまだ先生から「あがの記憶」という映画のことをきく。これは前作の10年後につくられた2作目。前作は、ある村にいる当時80歳くらいのおじいちゃん、おばあちゃんの日常の姿をおったものだったらしい。この10年後というのが今回の作品。作品にうつしだされているのは、川がえんえんとながれ続けるシーン。あるいは家のカマドが煙りをゆらゆらあげて、誰もうつっていない部屋に、カメラの後ろで家人の喋り声がきこえるというだけのもの。 つまり、周囲に変わらずあるものが延々と映し出されることによって、かえって今、もうあの時のおばあちゃん、おじいちゃんがこの世にはいないことがクローズアップされるというものだ。 このように「ない」ということは、その他のいくつもの「ある」ということが前提となって成り立っているというわけだ。質的研究のもっとも特徴的なことは、この「ない」ということを表現できることだろうと思う。 「ない」というのはなかなか表現できるものではない。いま、ここでないものはたくさんある。挙げ出せばきりがない。そして、そのどれもが<いまーここ>にないという点では真実である。しかし、我々は通常、そういう事態をさして「〜がない」とはいわない。それは、ないことが真実であるにも関わらず、レレバント(有意味)ではないからだ。誰が、どのような時、どのような状況のなかでそれをみるのかによって、「ない」といえるものはかわっていく。そのようなものが「意味」だ。 質的研究はこの「意味」の記述を目指しているといえるだろう。
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