あおい世界
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昨日のことを記します。
朝4時起床。 洗濯を回し、朝食と桃のお弁当(今日に限って校外学習)を作り、 桜と桃を起こす前に自分だけ先に朝食。 いつもより30分早い5時に娘らを起こし、 できるだけの片付けをした後は二人に託して、5時半に家を出ました。 平日の早朝はガラガラで20分で駅の駐車場に到着。 イノマタさん、コバヤシさんと合流し、6時25分のはやぶさへ乗り込み、 ニワ社長へお別れをするために埼玉へ向かいました。
健康に自信を持っていた社長。 1年前の健康診断で肺癌が見つかったものの、 切除できない状態だったため、抗がん剤と放射線治療をし始めたとのこと。 入院したのは3月10日。 そぅ、大震災の前日。 しかし、なかなか合う抗がん剤が見つからなかったようで、 みるみる痩せていったそうです。 抗がん剤が効かないからと、後半は長野県の免疫療法を受けるために、 1週間に1度、通ったりしていたらしいのですが、 亡くなる1週間前、体調がすぐれなく、そこに行けなかったものの、 次の週には行きたいと言ったため、連れて行ったところ、 その待合室で意識が遠のいて、そのままになってしまったということです。 今年の2月頃、脳に転移しているとも言われていたらしい。 モルヒネに頼らなかったので、多分すごく痛みを我慢していただろうって。 でもそのおかげで最後まで意識はしっかりしていたって。 社長の性格上、モルヒネの副作用で訳が分からなくなるのが嫌だったのでしょうね。
ほんの数人の人たちにしか、肺癌の末期だということを知らせていなくて、 入院先とかも隠していたんですって。
初めてお会いした社長の娘さんたち(カヨコさん37、ヒロコさん、マミコさん31)は、 とても気丈に振る舞い、 宣告を受けてから1年間の猶予があったので、覚悟することができたと言っていました。 ヒロコさんだけが結婚されていて、 社長は男の子のお孫さんをとても可愛がっていたそうです。
それにしても、信じられないくらい小さいお顔になってしまっていて、 多分、社長はこういう姿をあたしたちに見られたくなかったのかもしれません。 仕事と自分の身体のことは別だからと、周りに知らせなかった社長。
仙台とは逆で、通夜の後、告別式をし、最後に火葬だったので、 あたしたち三人は、告別式に当たる音楽葬に参列し、 その後、遺骨を拾うこともできました。 音楽葬はお坊さんを呼ばず、お経も戒名もなく、父の時と同じようなお別れ会でした。 そして、拾った遺骨が細く少なかったのは、 女性らしさなのか治療のせいなのかは分かりませんが、 社長の姿は無くなってしまいました。
会社の事務をし始めていたヒロコさんが、 今後、続けていくのかどうか、まだはっきりしていませんが、 社長に瓜二つのヒロコさんと話していると、 社長が居るみたいで、涙が溢れてきました。
社長の旦那様は数年前に脳溢血のため、半身不随の状態ですし、 三人のお嬢様たちはまだまだ大変でしょうけど、 社長の真っ直ぐな性格を受け継いでいくことでしょう。
喪主である長女のカヨコさんが挨拶で言っていました。 母は無難な決断ができない人だったので、 今後何かで迷った時は母のことを思い出し、一歩踏み出してくださいって。
ホント、そぅですね。 社長、御無沙汰し続けてしまい、本当に申し訳ありません。 社長と過ごした熱い数年間は忘れられません。 社長のこと、忘れませんから。
夕方3時22分のはやてに乗り、4時半に仙台着。 イノマタさん、コバヤシさんと駅で解散。 今度は葬祭以外の楽しい機会を設けて会いたいですね。 それぞれ毎日を大切に過ごさなくてはって思います。
ニワ社長 享年64。
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