あおい世界
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朝4時半、母が起きる音であたしも目が覚めてしまいました。 まだ眠っている人たちを起こさないよう、 静かに静かに母にコーヒーを淹れ、あたしも朝茶を飲みました。
その後、目を覚ました伯母さんと母が話し始めたので、 あたしは室内にあるパソコンでネットサーフィンしたり、 お線香をあげたりしているうちに、みんな起き出し、朝8時朝食。
朝食中、従兄が戻ってきました。 この従兄は、昨年亡くなった伯父様と伯母様の息子で、 自分の親の一周忌法要を行うため仙台に来ていたのですが、 元々父の見舞いをしてくれようと思っていたそうで、 このような形になってしまった今、 一周忌法要、その後のいとこ会(宿泊)などで抜ける以外は、 ずっと父に関することで動いたり、母の相談に乗ってくれたりしました。 心温まる手助けに思う存分甘えられるのは、 兄貴が伯父様と伯母様の葬儀の際、いっぱい手伝ったからというのもあります。 いい関係ですね。
午前10時半、数人の親戚がまた集まってくださり、 父の棺に花を供え、最後のお別れをしました。 献花の豪華な花々の中に、父が作った皐月の花がたくさん。 相変わらず眠ったままのような綺麗な死に顔。 そこから火葬場へ車で移動。
炉に入るとき、もっともっと泣けるかと思ったのに、 不思議とあたしは涙ぐむだけで号泣できませんでした。 うんと我慢しているわけでもないのに、 よっぽど昨年の伯父様や伯母様の時の方が泣いてました。 そういうものなのでしょうか。
待つこと1時間半ぐらい。 控室で昼食を振る舞い、お茶菓子などで休んでいただいているうちに最初の呼び出し。 兄貴とトシコさんとあたしの三人で遺骨の確認。 そこには、とても白くて立派な大腿骨や頭蓋骨がありました。 本当に逞しく、綺麗な、父そのもの。 ちょうど炉の担当だった方が父の知り合いだったらしく、 遺影を見て、ピンときたと声を掛けてくださいました。 父は定年後の数年を、 この火葬場に隣接している墓園の管理事務所で働いていたのです。 多分、その時の顔見知り。 母は知らない人だったようです。 もう10年以上も前のことなのに、その方は覚えていたのですね。 当時父は、この墓園内にある市民墓地を購入しました。 元気だった頃、墓石の話を兄貴としていたそうです。
確認した後、今度は遺族全員での収骨。 気丈にしていた母ですが、さすがに胸に詰まるものがあったようです。 あたしと一緒に頭蓋骨と喉仏を拾っただけで、あとは他の者に任せていました。 全てのことにショッキングな桜と桃も一生懸命収骨しました。 骨壷に納められ、ずっと遺影を抱えている母に続いてあたしが遺骨を手にしました。 兄貴は人には任せられない自分の車の運転があり、 あたしの車は何年かぶりだというトシコさんが運転してくれることになりました。
そして帰宅。 火葬場から帰る親戚が居て、ゆっくりお別れというわけにはいきませんでしたが、 実家に来てくださる方が数人いて嬉しく思いました。 しかし、それぞれが家に帰り、実家には本当の身内だけになり、しみじみと夕食。
先週、梅雨入りしたというのに、この三日間は天気に恵まれました。 母は父が晴男だったからとみんなに言っていました。 今日も火葬場で、車に荷物を取りに行ったとき、 眩しいくらいの青空と入道雲、心地いい風を感じました。
死に様は生き様とはよく言いますが、 父の生き様が表されていると思えてなりません。 癌と確定してから50日間。 半分を病院で、半分を自宅で過ごしました。 ずっと辛かったでしょうけど、 最後の4、5日が苦しみのピークだったと思います。 母が後悔しない程度の介護を受けてくれて、 自宅に戻るのを待っていたかのように息を引き取った父。
あなたの思いは、今どこにあるのでしょう。 あたしはあなたの娘で良かった。 42年間、本当にありがとうございました。
夕食後、兄貴とトシコさんは自宅へ帰っていきました。 あたしたち親子は今晩もお泊り。 明日早起きして一旦自宅へ帰り、桜と桃を学校に送り出す予定。 あたしは明日までお休みをいただいているので、実家へ戻り母と過ごします。 夜、母と桜と桃は早々にベッドへ入り、あたし一人がゆっくりお風呂。 のんびりテレビを観ながら髪を乾かしました。 振り向くと父の遺影。 まだ信じられません。
(記載 6月18日)
検索WORD = 父の病−
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