あおい世界
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2009年06月12日(金) 父の病−退院。

昨日の朝、母にメールで父の様子を聞いたところ、
お昼になってから返信がきました。

昨日今日とても悪く、酸素しているし、痰とりもしているし、
目も開いてとろーんとしているので出来るだけ付いているのよ。
退院は先生が絶対させてくれると信じているけど心配。
今もしかしてのお泊まり介護に備えて私の薬を取りに帰ったのです。
では


居ても立ってもいられず夕方、娘二人を連れて病院へ行きました。
三日、病院に行かなかっただけで、
父はあっという間に何年分も悪化してしまったようでした。
もうあたしに何かを訴えることさえできない状態です。

延命処置はしないと言い切っていた母ですが、
どうしても明日退院させたいと言い、酸素吸入させています。
父は口を大きく開け、鼻からの管を付けて息をしています。
それは激しく、苦しそうに。
目は薄っすらとしか開けられず、話すこともできません。

大きな声で話し掛けたり、父の手を握ったりすると、
まだ様子は分かっている感じです。
桜と桃との三人で泣いてしまいました。

時々、力を振り絞って必死に管を取ろうとする父。
もう息をするのが苦しそう。
あたしは父の思うままにしてあげたいという衝動に駆られましたが、
母はなんとしても明日退院させたいと思っているらしく、
管を外さないようにと言います。
あたしは退院することが父のためになるのだろうかと母に聞くと、
もう、そうじゃないかもという返事。
退院するに当たって、介護の必要性が出てきたための諸手続きに日数が掛かり、
週明けが週末になってしまった成り行きが残念だと言います。
自分がめげなければ、
最初から入院させることもなかったとも思っているようです。

もうこれは死期を選ぶのは父と母に委ねられていると思いました。
これだけ父に尽くしている母が納得するということも大切なのだと。
父のベッドの隣りには母の簡易ベッドが用意されていて、
母は泊まることにしたと言います。
あたしが居ると、外したがっている父に任せてしまいそうなので、
1時間ほどで病院を後にしました。

桜と桃とあたし、三人の顔は泣き腫れていたと思います。
そんな雰囲気で帰宅してからの桜の誕生会だったというわけ。



そして今日。
朝、とりあえず病院の母に電話をしました。
少し弱くなったけれど、昨夜と同じような状況とのこと。
病院に掛け付けたい気持ちを抑えて仕事へ。
15日締めの書類作成は所長の出張の関係で今日仕上なければいけないし、
父がいつどうなっても対応できるようにしておいた方がいいと判断し、
朝は仕事へ向かいました。
すっかり終わらなかったものの何とか形になったので昼休みまた病院へ。
状況によってはそのまま早退できるようにしたのですが、
病院での父は相変わらずで、酸素によって呼吸させられているという感じ。
あたしの呼び掛けにも分かっているのかいないのか。

それでも午後、退院させてもらうことになり、
当初、点滴のみというのが、昨日の段階で酸素もということになったそうです。
午前中、シャンプーしてもらったそうで、
衣類も着替えてあり、帰る準備が整っていたところでした。

退院できるならということで、あたしはまた仕事へ戻り、
まだすっかり終わっていない仕事を片付け、定時よりちょっと遅れて退社。
その足で実家へ。

皐月に囲まれた座敷の中央に、介護用ベッドが置かれ、
父が酸素吸入を受けながら横たわっていました。
もう目はうつろで、何も表現できない状態です。
この状態が長く続くことが、本人のためとは思えないのですが、
兄貴が来週まで秋田に出張中のこともあり、
ここであたしがどうのこうのと言う立場ではないと思いました。
母はソファに横たわり、見舞いに来てくれた近所の友人と話をしていたので、
また明日の朝、来るからと言って帰りました。
母は退院にあたって、点滴も投薬もすべて断ったそうです。
酸素も断ったそうですが、
担当医に酸素だけは付けてあげた方が本人がラクですよと言われたそうで、
酸素を付けたままの帰宅になったのですが、
あの呼吸を聞いているのはとても辛い。
でも、それを母はこれから四六時中なのかと思うと、
それもまた辛く思いながらの帰宅でした。


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