sasakiの日記
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意味のない毎日が 僕の横を通り過ぎ 悲しみに満ちた 僕の一日
季節の変わり目に ふともらい泣きをする 風待ちの中に 風待ちの中に 愛は 愛は ふと燃えていく 僕の中で ふと消えていく おもいとなる 奴でもないし 君でもないし 風当たりは 僕さ 僕さ 僕さ
1970年の真ん中あたり、僕は静内にいた。 毎日毎日、釣り竿を持って海に出かけ、魚を釣ることが目的じゃない釣りに忙殺されていた。いつも聡が一緒だった。 釣り竿を海に投げ込むとあとはもうどうでもよく、持ってきたグローブで仕事のようにキャッチボールをする。 僕たちはまだそんなに真剣に人生を考える年じゃないだろうと高をくくって日高の端っこで遊んでいた。 後にも先にも僕、聡、富士雄さん、男同士で生活を共にしたのはこれが最初で最後だった。 「今度、静内で唄う店を作ろうと思ってるんだけど、おたく、どうだい?やってみる気無いかな?部屋と飯はこっちで用意するから。からだ一つで来て貰えばいいから?」 徳光さんの話は、大体こんな話だったような気がする。 そのころはもう”第一巻第百章”というバンドを抜けて1人になり、ソロという自覚もないまま弾き語りを始めた頃だった。 昨日までバンドの後の方で慎ましいリードギターに時々のコーラス、このギターでいいんだろうか?と不安がらみのステージにいい加減自分でキレていた。 そろそろ真面目に仕事を探さないと、普通の人が乗る列車はもう随分先まで行っていて、自分が乗れる電車を自力で探さないと。 この頃の不安はいつも薄い膜が張られていて、まだまだその実態が顔を出さない。
ギターケースと2,3日分の衣服を詰め込んで静内の駅を降りた。 苫小牧からずっと海を見続けてきた気分と、駅に降り立ったときの気分には果てしない差があった。 「佐々木先生ですか?」、富士雄さん登場。 黒のスーツにノーネクタイ、ズボンの丈が短く、歩くたびに靴下の模様が見えるあの富士雄さん。新宿のキャバレーで支配人をしていたという富士雄さん。 「先生じゃないだけど。」僕。 「いえ、あの。唄われる方は概ね先生と呼ばせて貰うことになっているんで。私どもの世界では」何処の世界でダヨ。 「人に知られたらかっこわるいからその呼び方だけは堪忍してくださいよ」 「そういうわけにはいきません、先生。」富士雄さんは新宿のどっかでそういう世界を習ってきたらしい。 「ところで、富士雄さんは幾つなの?」 「23ですけど。」 「そっか。」
僕はライブハウスみたいな所で唄うだけなのに先生と呼ばれることになってしまった。ライブハウスといったって一日5ステージ以上ある。歌い手は僕1人だ。
その時、僕が持ってた自作の歌は「コカコーラ・ジェネレーション」というラグタイム風の歌と「タイムマシン」というバンド用に作った歌で、この2曲しかなかった。店にしてみればこれはある意味ラッキーなことだったろう。変なオリジナルを酔客の前で唄われるよりは、ある程度みんなが知っている、流行りのフォークソングみたいなものを唄わざるを得ないわけだから。 僕にしたって「氷雨月のスケッチ」や「機関車」、ハッピーエンドの曲がここで受けるとは思っていなかったから沢山歌を覚えた。「爪」や「サントワマミー」、「影を慕いて」、そしてかぐや姫にまで手を伸ばした。もう町中の人が物珍しさに集まってくるものだからレパートリーはほぼオールコート。そして町中の人が集まってくるものだからいつも満員。オーナーは笑いが止まらなかったと何年か経ってからよく言っていた。
支配人は富士雄さん、歌手は僕、バーテンダーは聡。ここから約1年僕は静内で暮らすことになる。
sasaki
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