The Green Hills of Earth
痴漢で訴えられた男性が、刑事訴訟では「不起訴」となりながら、損害賠償を求めた民事訴訟では「痴漢行為があった」とされ敗訴しました。
愛媛県警からウィニーによって流出した捜査報告書から、愛媛県警が殺人事件の参考人とされている女性の車に無断で某警備会社のGPSによる位置特定システムをつけ車を尾行していたことが判明しました。 まぁこのサービスをしている「某」警備会社ってひとつしかないと思うんですけれど、兎に角、そちらは顧客のプライバシーを楯に客に警察があったかどうかは言えないと言っていますし、警察も「プライバシー保護の観点から言えない」と言っているようですが、警察の言う「プライバシー」って何なんでしょうね。 一言で言えば「田舎もんの考える人権なんてこんなもんだ」って事でしょう。ええ、愛媛が「田舎もん」なのではなく、これらバカなお役所仕事をする阿呆な警官のことだけを指しているので誤解なきように。 自分のやっていることが許されることかそうでないか、やって良いことか悪いことか、そう言うことすら判断が出来ず、一方ではこういう暴走をし、他方では栃木県の「リンチ殺人事件」のように、親が何度も警察に相談に来ているのに、「警察は事件になってからでなければ動けない」と無碍にして、やりすぎて責任を負うのは嫌だ。俺は見ざる言わざる聞かざるを実践すると、事件をうやむやにしてしまう阿呆が居ます。その中道を保つことは難しいことなのでしょうか。もし難しいと思うのであれば、即刻警察と言う責任のある部署から離れて欲しいものです。
警視庁はアニメやゲームやインターネットなどに溢れる有害情報(性暴力など)が凶悪犯罪の引き金になったり、子供に悪影響を与えているとして、それら問題を検討する研究会を「今頃になって」設置したと自慢気に発表したようです。 「宇宙戦艦ヤマト」が日本で大人気となり、それがアメリカに渡った時、アメリカでは「子供に見せてはいけない番組」に指定されました。当然ですよね。あれだけの戦闘シーンや人が死ぬシーンがあるのですから。その当時のアニメや実写物の子供向け番組を見ていても、勧善懲悪を気取っていてもずいぶん残酷シーンがあった物で、私はなぜそれを平気で子供に見せているのだろうと不思議に思っていました。ただ、ヤマトだとかダイモスだとかガンダムなんてアニメを見て凶悪な犯罪に行く人はそんなに居ないんじゃないかなと私は思います。私が一番怖いと思ったのは、人を殺すことを目的としたゲームです。ゲーム感覚で人を殺したり、戦うことが遊び感覚になりますよね。私が子供の頃はケンカと言えば1対1でというのが普通で、武器を持ってきたり、複数でと言うのは卑怯者という感覚を多くの人が持っていたのですが、ゲームでパーティを組んで集団で敵と戦うことを覚えた子供は平気で徒党を組んで痛みもわからず暴力をふるうことに違和感を感じなくなるのではないでしょうか。その背景には子供の内に、叩かれたら痛いと言う事を教えないからなのではないかと言う考えもあります。 兎に角、今頃になってこんな研究会を発足させ「夏頃までに問題提起する」なんて言っているようですが、「何を今更」感が否めません。そんなことは30年前にやっておくべき事で、「流石お役所は、壮大な時間の流れの中で仕事をしているねぇ」と嫌味しか思い浮かびませんわ。
Reiko Katoさんの「晴れの日もある」で「離婚の理由」を拝見いたしました。 Reiko Katoさんの言われるように、今、離婚が増えているのは、女性が一人でも生活できる世の中になったからだと思います。が、「もちろん、それはいいことだ」というフレーズがどうにも頭の中に引っかかってしまっています。 どんな理由であれ女性が自立して生活できる基盤があると言うことは喜ばしいことであることは間違いないありません。しかし、先日の「行列の出来る法律相談所」という番組でもちょうどでていたのですが「妻が何かにつけて「離婚しようかな」と言う」事が離婚の原因になるかと言う話があったように、最近はとても些細な理由で離婚に逃げる人が増えているように思います。「合わないなら離婚してしまえ」と言うのも一理ある答えだと思いますが、安易に結婚してさしたる努力をせず簡単に離婚をすると言うのも如何なものかなと思うのです。決して女性に犠牲になるべきだと思っているのではありませんが、私の知る限りでは安易に離婚に逃げるのはやはり女性が多いように思えます。それにはやはり弱い立場だからと言う理由もあるのかもしれませんが、兎にも角にも、一面では女性がひとりで暮らせる基盤を喜ばしく思っても、「もちろん、いいことだ」と言われると、そんな風に思う風潮が安易な離婚を生む土壌になるのでは?とも思えてしまうのです。 何度も書きますが、女性がひとりで生活できる基盤が出来ていることはとても良いことです。が、「もちろん」と言う言葉は余計じゃありませんかね。小さいことにこだわりすぎているでしょうか。
1985年に埼玉医科大に入学したのですが、1993年に最終学年に進級後も留年を繰り返し、当時の学則での在籍上限年数を超えた1996年夏の追試にも不合格となり自主退学扱いとなった男性が居ました。12月になって母親の知るところとなり、母親は2360万円の学費も納めたのにと抗議したところいったん処分は取り下げられました。そして1997年2月に教授らから「卒業できて良かった」と声を掛けられた母親は謝礼として現金を渡したのですが、3月に「形だけふぐ学の試験を受けて」と言われ試験を受けた男性は1999年まで試験を受けたのすが、結局試験に合格することが出来ず、97年に除籍となっていたのだそうです。それを母親は2004年になって知り、この男性の退学処分を無効とする訴訟をおこしていたのですが、それは2005年に最高裁で男性側の敗訴が確定しました。そして今度は「謝礼金の返還と慰謝料」を求める訴訟をさいたま地裁に起こしたと言う事みたいです。 何と言っていいのやら良く分からないのですが、44才と言うことですから単純に考えて1961〜2年生まれと言うことですね。そうすると高校を卒業したのが1980年頃となりますから、この男性は大学に入学するまでに既に5浪している計算になります。そして、ようやく入った大学で6年生になるのに8年を要して、更に最後の1年を履修するのに3年かかっても終わることが出来なかった訳です。1996年時点で35才位ですかね。そこでまだ試験に合格できず、38才の1999年まで頑張ったけれど除籍処分…果たしてこれは誰の責任なんでしょう。 大金を払ってくれた親に免じて、大学に在籍できる上限の年数を多少曲げてでも大学側としては卒業して欲しかったのではないでしょうか。しかし、5浪5留のこの男性に無条件で卒業資格を与えることは良心が咎めたのでしょう。そして試験をしたら案の定合格する実力を伴っていなかったのです。果たして、これは大学側が騙したと言うことになるのでしょうか。私には何とも言えませんが、これって結局、男性の頭が悪かったから仕方ないことなんじゃないですかねぇ…だいたい、卒業が決まったからと教授に謝礼を持っていった。それを返せと言うのは堂々と言えることなんですかね。なにか変じゃないのかなと思えてなりません。それとも大学ではこう言うのは普通のことなのでしょうか。 リンク、引用はご自由に。画像は勝手に持ち出さないことを祈ります。 COPYRIGHT(C) Lunatic 2002-2010 |