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2006年03月19日(日) 授業中の野球観戦

大阪の市立小学校で5年生の担任教諭が授業中に教室のテレビを使って野球中継を見ていた事が判りました。

私はここで何度も書いていますが、今の教育制度は間違っていると思います。
乱暴な言葉で言ってしまえば、生まれたばかりの子供はその辺の動物と一緒で「常識」も「道徳」も持っていません。それを植え付けて動物と人間とを区別出来るように「しつける」のはひとえに親の権利であり、義務であり、そして責任です。そして学校は(少なくとも)最低限躾られた「人間の卵」に、親だけでは躾られない集団の中で和することや純粋な学問の知識を植え付けるところであって、決して動物を人間にすべき所ではありませんし、ましてや動物園やサーカスでもありません。無責任な親によって人間になりきれなかった動物と紙一重の子供に対して寛容で居るより、体罰を持ってそのような半動物は調教すべきだと思う次第です。

子供に対してただ言葉で話しただけで全てを理解させるという事には限界があります。それで判る子供もいるでしょうし、それで判る場合もある。でも、いくら言葉で諭しても判ろうとしない子供、理解できない状況というものがあります。そう言う時、先生が大人としての判断で、子供に体罰を与える事で、これはやってはいけない事なんだと理解させるという事はとても重要なことです。自分が我が儘を言っても誰も止められないと思わせる教育は明らかに間違っています。
しかし、その「教師に体罰を実施する力」を与えるには、教師は「聖職」である必要があるのです。自分の私生活でおもしろくない事があったから子供に当たり散らす等という事があってもいけませんし、自分の感情で子供に好き嫌いを作ってもいけません。あくまでも平等な目で見て、先生という立場で子供を見回した結果必要と思われるところで必要と思われる場所に体罰を下す事が出来なければ、それはただの暴力と区別がつかなくなってしまいます。

このような自分の欲望に負けて、授業中にテレビを付けて野球を観戦していたなんて先生は言語道断ですよね。果たして、こういう先生が多くなったから、体罰を安心して任せられなくなった(聖職という意識が薄れた)のか、体罰を与える事が出来なくなった(聖職じゃなくなった)ので、こういう先生が多くなったのかどちらなのでしょう。


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