The Green Hills of Earth
ある会社に行った時のこと、私は、今まで経験していない言語に触る機会に恵まれ、一番簡単そうなプログラムを1つ回してもらって作ってみることにしたのです。その言語はオブジェクト指向という部類に入るもので、既存のプログラムを知っているからといって決して取っ付きやすくなるものではありませんでした。まぁ、この辺りは説明すると小難しくなってしまうので、例えばラジオの技術に精通している人に、テレビがどうやって映像を送ることができるのかを教えようとしてもなかなか伝わらないというようなイメージを持ってください(本当はラジオに精通していればテレビ(映像)伝播も簡単に理解されるかもしれませんが、あくまでもイメージという事で)。
長年、ひとつの仕事をしていると、時代の流れとともに新しい技術なり手法なりが取り入れられてきますが、そこは長年の勘というか積み上げてきた経験から、新しいものもうまく取り入れて対応できるものです。しかし、今まで手書きだった資料作りが突然ワープロでやることになったりするなど、大きな変革の時期を迎えると、それに対応するのは大変と脱落する人も出てきますし、そこまでは行かなくても、その技術を覚えるのは結構大変だったりする訳ですよね。 この時の私もそう言ういう感じでした。自分がしたいことは分かっている。今までのプログラムでならそれをどう記述すれば良いかも分かっている。しかし、今回のこの言語ではどう書いたら良いのか、どこでどんな宣言をしたらいいのかが分からない。極端に言えば「1+1は?」と言うことを聞くにはどう書いたらいいのかが分からないという感じだったのです。 悩んでいると「分からないことがあったら分かる人に聞いてください」というので、正直にその旨を話したところ、その会社の生意気盛りな若者が「そんなことも分からないなんて、あなたはもしかしてプログラムができないんじゃないですか?」と言う訳ですよ。「いや、プログラムが分からないのではなくて、この言語の中ではこれをどのようにあらわすかが分からないから、迷っているだけで、1つ取っ掛かりがあれば分かることでしょう。その取っ掛かりが無いから悩んでいるのですよ」と言っても理解できない感じでした。
別のある時、別の会社の若者と車で出かけることになったのですが、その若者は「運転に自信がないのでできれば運転していただけませんか?」というのです。別に運転することは苦になりませんから私が運転をしたのですが、目的地について車を駐車場にバックで入れようとしたとき、つい、癖でギアをバックに入れる手が空振りをしてしまったのです。その車は普通乗用車なのでシフトレバーは運転席と助手席の間についているのですが、私が普段乗っている車はコラムシフトと言ってハンドルの付け根から生えているのです。ですからつい何ドルの奥に手を伸ばして虚しく空振りをしてしまった訳ですよ。それを見た、その若者は「何をしているんですか?」って笑いながら聞くのです。私が「自分の車はここにシフトレバーがついていてね」というと「そんな車ある訳無いじゃないですか」って言うんですね。まぁ、その若者の常識のレベルではそんな車は見たことが無いのかなと、それ以上は言いませんでしたがね。
先の話に戻りましょう。その生意気盛りの若者は、自分が分かっていることについて、相手が分からないという事に「常識」「非常識」と言う枠を当てはめ、自分の中での「非常識」なことには「信じられない。教える価値も無い」と決め付けていました。確かに質問したことはとても低レベルな話です。しかし、調べてみて分かったのですが、最初に渡された状態では、通常のやり方でやっても私がやりたかったことは隠されていて、その言語なりでの簡単な設定を知らなければ見つけられないものだったのです。その若者は「それを知っている事」も含めて『常識』と判断していたのです。 分かりやすく言ってみれば、自分の家に友達を呼んで、その友達が「トイレはどこ?」って聞くと「信じられない。あなたはトイレってなんだか知っているんですか?もしかして使ったこと無いんでしょ。トイレくらいどの家にもあるのが『常識』じゃないですか。そして、トイレなんてどの家にでもあるんだから、いちいち私が教えなくたって、場所くらい分かるのが『常識』でしょ。そんな事私は教えませんよ。自分で勝手に探したら良いでしょ」と言っているようなものなのです。ただ、本当にその例えのような状況だったら、そして本気で相手がそういうなら、それらしきドアを片っ端から開けていけばすぐに見つかるでしょうね。けれど今回の仕事の話は、その家が忍者屋敷のように隠し扉もたくさんあるし、迷路も完備、そしてその部屋の数が数百もある大豪邸という設定になっていて、見つけるのがとても大変だという設定になっているのが違いでしょうね。
自分は知っている事を相手が知らない。それを最初から「非常識だ」と決め付けることは教える立場として正しいことでしょうか。私にはそうは思えません。どんな低レベルなことでも、相手は分からないから質問をしている。そんなレベルの事を何度聞いても覚えずに同じような質問をしてくるとしたら、怒るのも仕方ないだろうと思います。しかし、初めての事をする時に、相手が何で悩んでいるのかを自分の器に当てはめて判断をするというのは全くもって愚かな行為です。私はこの若者については腹を立てたりはしません。経験不足で、自分が世界の中心にいると信じているような若造ですからね。ただ、その上司に対しては、その教育不足についてかなりきつく怒りましたけれどね。結局「聞いてください」と言っていたにもかかわらず、聞いても気分を害しただけで何の進展も得られず、その後自分で調べてその取っ掛かりを見つけたことを付け足しておきます。
常識とは、三省堂「大辞林 第二版」によれば (1)ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。 「―では考えられない奇行」「―に欠ける」 (2)「共通感覚」に同じ。 だそうです。しかし、その「人々」とは世界中のすべての人をさすものでも、日本国全部をさすものでもありません。もしかしたらそれは町内限定かもしれませんし、社内限定かも知れません。もっと狭くて友達数人限定と言うものも考えられます。自分で常識と言う枠を決めて、それ以外を「非常識で信じられない」と決め付ける心はとても危険です。私は「まず『常識』を疑え」と思いますし、「そんなの常識だろう」と言う人ほど視野の狭い人であろうと考え、接し方に注意をするようにしています。
自分にとっての常識が相手にとっても常識であると考えることは本当に危険です。話は、まず相手の立場に立ってしなければ理解されにくいものになるでしょう。言うのは簡単ですが実践することはとても難しいと思います。しかし、そういう気持ちを持つことと持たないことでは大きな開きができることも事実でしょう。どうか、ここを読んでくださっている方におかれましては、今一度自分の考え方を見つめなおしてみていただければ幸いです。
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