The Green Hills of Earth
2005年08月12日(金) |
あれこれ / スローガン / 理不尽だと思う |
今日から短いながらも盆休み…というのは建前で、単に仕事場が家に移って来ただけのような気がします。とは言いつつ、今日はちょっと都会の大きな本屋へ、仕事関係の資料を探しに行くつもりなので午前中はちょっとだけのんびり休ませてもらっています。のんびりできるって良いですね。
今の仕事で、本当久し振りに「仕事って内容より人間関係とか環境が大切だなぁ」と感じました。仕事は面白いんですが、環境や人との関係がどうもイマイチなんです。険悪ではありません。が、ほんの少しだけ微妙にずれている。うーん、列車に乗っているときにかすかに漏れ聞こえるヘッドフォンからの音の残骸とか、ゲーム機や携帯電話のキーをたたく音…うるさくはないんだけど「五月蝿い」…分かってくれるでしょうか。そんな感じです。このずれをどうやって改善して行ったら良いのかなというのが問題だと分かってはいるのですが、実はそういうのが一番苦手なもので頭を悩ませている次第。この盆休みはそんなことに煩わされることなくのびのびと仕事ができるのがとても嬉しいです。あ、愚痴になっちゃいましたね。ごめんなさい。
今は貧乏ですから贅沢は禁止。しかし、小金ができたらどんなことをしよう…ちょっと考えると、今の優先度ではまず、年末が期限のANAカードのマイレージを消化するのが最優先。飛行機に乗るためにはそこまでの交通費も要りますし、とんぼ返りするって言うのも悲しいのでやはり多少の金が要る。まずはその金が必要。何も切符に変えなくても、例えば食べ物にしたりANAの商品券にしたりと言う手もあるのですが、航空券に帰るのが一番お得感があるという事で、どうしてもそれに拘ってしまう(そして冷静に考えると手持ちのお金も消費するので、実は一番損をするコースをそれでも選んでしまう)自分の小市民ぶりが大好きです。その次辺りに自転車のまともな空気入れが欲しいとか、カメラのレンズが欲しいとか続くのでしょうけれど、じゃあいつ実現できるのかなと考えると、もしかして鬼が笑うかもしれない…虚しいのでもう考えるのはやめておきます。
前回、自宅のサーバーにD70などで撮った写真をノートパソコンから転送したのは5月だったのでしょうか。それ以来ノートパソコンに溜めっ放しで、気付いたら約5GB分の画像が貯まっていました(CASIO EXILIM S100で撮影したのが82枚、PENTAX OptioXが297枚、Nikon D70が1024枚)…ノートパソコンのHD自体はまだ余裕がありますが、転送するのも時間が掛かるだろうからやれる時にやっておこうとさっきコピーを始めたのですが、最初に表示されたメッセージでは「所要時間54分」だそうで、30分以上掛かってもまだ終わらない…ん?何かおかしいぞ と思って確認してみたら、LANケーブルを接続していたのにもかかわらず設定は無線LAN接続になっていました。あと少しで終わるのにわざわざコピーをやめて、無線LANを無効にして有線を試すことにしました(こういうところがおバカだなぁ)。 そしたらびっくり、有線LANにしたらサーバーが見えないじゃないですか。ウィルスバスターの設定を疑ったりあれこれ考えちゃいましたけれどね、結局先日IP電話のVoIPアダプタを設定する時にアダプタにケーブルをつなぎ買えたのを忘れていました。そちらにつないだら、VoIPアダプタは独自の世界を自分ひとりで作っているのでその周りは見えなくて当たり前なんですよね。ちょっとだけドキドキしましたが、まぁケーブルを本来のルータにつなぎ変えて解決。有線LANで実行してみたら「所要時間17分」だそうで、大体3倍位の速度差でしょうかね。納得できる速度差ですね。この速度差を考慮して有線ケーブルを張り巡らしたんですから、活躍してくれて嬉しい限りです。実際には10分も掛からずにコピーは終わってしまいました…30分も放置して気付かなかった自分をが悲しい…
社民党のスローガンを「「国民を見ずして、改革なし。」にするんだそうです。 じゃあ、社民党に存在価値ないじゃん。国民を見てくださいよ。 そのスローガンの相手は社民党にこそ相応しいんじゃないのかな。
六本木ヒルズの回転ドアで男児がドアに挟まれて死亡した事件での公判があり、男児の親が「危険を予測できたのに放置した罪は重い。ぜひ実刑判決を」と望み、検事はビルの責任者及び回転ドアの責任者に対してそれぞれ禁固刑などを求刑したという事らしいです。
ビル側もドアメーカー側も危険について承知してたと認めているという事で、このようなことになったみたいですけれど、私は1人実景を求刑する相手を忘れているんじゃないかと思っています。そう、その男児の親をです。都会の雑踏には回転ドアだけではなく、例えば自動車と言う明らかな危険以外にも雑踏の中の先を急いでいる人や自転車、あらゆるものが子供にとっては凶器になるでしょう。そんな中で手を離して子供から注意をそらして死に追いやった罪は何を持って償わせるべきなのでしょうか。それはドアメーカーやビルの責任者が責任を取ったからといって消えるものではないでしょう。親自身が「放置した罪は重い。実刑を」と言っているのですから、自分も実刑を受けて罪を償うべきだと私は思います。
この事故があった頃にも「親の責任だろう」と言う意見に対して「親が子供の一挙手一投足を管理するのは不可能」だと言うような意見が出ていました。なぜ、人を責める時は完璧を求めるのに自分の責任を持つべきところだけは「完璧なんて無理」と平然といえるのか私には分かりません。実際そこで子供がなくなってしまって感情的になって言うのは理解します。しかしそれは一時のヒステリーであるべきで、ヒステリーを起こしてストレスを発散したらそれ以降は論理的に考えるべきなんじゃないでしょうか。そうしたら「実刑判決を」なんて言葉は出てこられる筈がないんですよね。
今回の事故については、「男児が亡くなった」「他所でも似たような事故が起こっている」と言う事実から「君たちに罪はないのか?」と問われたら「ある」と答えざるを得ず、その口から「親も悪い」とは言えない状況と言う絶対に負けない(ずるい)戦争をしているという事に、この無責任な親は気付いているのでしょうか。この状況で本当は「ドアは良識ある大人の判断があれば事故は防げていた可能性が高い。しかし、無責任な親が子供をそんな(一目見て危険だと分かると後になって言っている)場所で手を離して放置し死に至らしめたことの責任を転嫁しようとしている」と言いたいのに、それを言ったらマスコミがまた面白おかしく騒ぎ立てるから言えないのですよね。ビルやドアの管理会社にも責任はあるでしょう。それは改善されなければなりません。しかし、自分の無責任さを棚に上げた親が偉そうに「あいつらが悪いから実刑を」と言うのならどうか親にも責任があるんだという事を、そして人に責任を求める時には同等の責任は自分にも掛かってくるという事をどうか理解させてあげて欲しいものです。
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