The Green Hills of Earth
2005年05月20日(金) |
テレビ番組の感想 / 平日なのに… / パソコンのバッテリについて… |
今、テレビ朝日でお昼前に「暴れん坊将軍III」の再放送をやっています。 時代劇は特別好きとか嫌いと言う事はないんですけれど、なんというのかある程度ワンパターンは許せますけれど、ありえねーって話は許せない(許容範囲外)のです。そのどこに境界線があるのかはとても微妙なんですけれど、水戸黄門は毎回「出るぞ出るぞ」と思って「出たー」と単純に楽しんでみています。とは言え、最近の由美かおるがいい年をして露出今日の忍者スタイルで出るようになったり、変な子供が出てきたりするようになってからは、折角今の黄門様は味があって良いのに、脇役で魅力が半減したなぁと嘆いていたりする訳ですけれどまぁ合格点。で、必殺シリーズって言うのは「ありえねー」の極みであんまり好きじゃない。そんな小難しく考えずに、仮面ライダーだの怪人だのが出てくるより現実味があるだろう程度に考えて見れば楽しめるのかもしれませんが、どうも受け付けられないんですよ。そして、先の「暴れん坊将軍」…実は私これは本放送では一度も見たことがありません。田舎だから放送していなかったのか、それとも何か裏番組を見ていたのか判りませんけれどね。で、ここ数日、この再放送を見続けているんですが、結果としてNoGoodです。 途中までは良いんですよ。水戸黄門みたいなものですからね。で、最後の締めまでは良いんです。でも、「余の顔を忘れたか」「は…上様…ははぁ」(土下座)「○×■(役職など)…貴様のやった事は許せぬ。貴様も武士の端くれなら腹を切れ」「うぬ。上様がこのようなところにおられる筈がない。偽物め。ええーい出会え出会え」(台詞は大意でいい加減です)なんて続く訳ですよ。 偽物に違いないなんて開き直るなら、「ははー」なんて土下座すんな。黄門様は全国行脚をするので、行く先々に悪党が芽生えている。翻って暴れん坊将軍は徳川の殿様で江戸から出ない。従って悪者はいつも江戸のお役人。そんなに成敗ばかりしていたら江戸の役人いなくなってしまいますよ。ってな訳で私には「ありえねー」に分類されちゃうんですよ。これ本放送のように週1回しか見ないなら耐えられたかもしれませんけれど、再放送は毎日ですからねぇ。毎日見ているからこそ、違和感があるのかもしれませんね…ね、ビミョーな判定でしょ。
刑事ドラマなんかも同じような判定基準があって、「太陽にほえろ」とか「なんちゃら刑事純情編(ごめん、タイトル忘れた)」なんていうのは脚本がいつも通りでも「へぇへぇ」と見ていられますけれど、「西部警察」のように、いい年をした大人が「○×軍団」なんて猿回しの集団みたいな名前をつけてお遊戯をしている集団が如何にもおもちゃの鉄砲もって、本当の銃のリアルさじゃない、自己陶酔の格好付けをしているようなドラマには反吐が出るっていう位反発しちゃう訳です。だってさマグナムだっていう拳銃を片手で撃って、それも無反動で、リボルバーなのに何十発撃っても弾がなくならないなんてねぇ… 今は朝の番組の司会をしている元ジャニーズの人気グループの一人が若かりし頃、ワイングラスの持ち方について、ワインの温度を上げないようにワインに触らず、足とカップの間のつる(正確な名前は知りません。悪しからず)を持つって話が出たときに、「そりゃ違うでしょ」と中指と薬指の間につるを挟んでカップのそこを手のひらで包むようにするのが「格好良いじゃない」って言っていました。そう、必然の知識がなくて、単にイメージによる格好だけならそっちの方が格好良く見えるのでしょうけれど、先に書いたようにワインの温度を上げないように持つのですから必然的な格好としては間違っている訳です。変な例を持ち出しましたけれど、兎にも角にも世の中には「イメージとしての格好良さ」と「必然から来る格好」がある訳です。ドラマは作り話、うまい脚本家はそれぞれのエピソードを自然につなぐし、三流の脚本家はギクシャクつないだり、単に起承転結の起伏を大きくすることでしか話を作れません。それは脚本家の能力ですから受け入れるしかないのですが、せめて銃の撃ち方くらいは必然的な格好を取り入れて、少しは現実味を出してほしいものです。 水戸黄門や暴れん坊将軍で「懲らしめてやりなさい」と大立ち回りをするとき、たった数人で何十人も相手にしていつも無傷でいられるのは「あれは件の達人だからだよ」「あれは忍びのものだからだよ」なんて考えて非現実的世界を受け入れられますが、6発しか入らないリボルバーから無限に弾が出てくるのは非現実的でしょう。 「どっちもどっちじゃないの?」なんて言葉が聞こえてきそうです。ええ、時代劇の時代と同じく銃もまったく興味のない人には、どちらも同様に「どうでもいいことじゃないの」ってなもんだと思います。どこまでこだわるかはそれぞれの人の興味の持ち方次第ですから、これは私のこだわりという事で、ほかの人にまで当てはめようとは思いません。でも、無限に弾が出てくる銃より、有限の弾を如何に使うかって方がドラマとしても現実味が出て面白さが出てくるんじゃないかなぁって思うんです。その辺りがいい加減なのが「いかにも安易にいい加減に書きました」って脚本家の声が聞こえてきそうで嫌な訳です。
最近の夜9時から始まるサスペンスシリーズとかも殆どは見る気が起きません。 まず、犯人や動機やストーリーが見えてつまらないこと(なぜ水戸黄門は許せるのに?)、家政婦やバスガイドが刑事のように事件の核心を調査できること…ああ、不自然←だから、黄門様が全国行脚できるって設定のいい加減さとどこが違うの? …ま、気持ちの持ちようですね。折角放送されている番組ですから、偏見なく楽しめるといいんですけれどねぇ…
皆さんはドラマにどんな思い入れがあるんでしょうね。
今日は金曜日のはず。で、今は朝の9時ちょっと過ぎ。場所は中央高速の談合坂SA。しつこいけど、今日は金曜日のはずです。なのに、私の後ろには観光バスが山のようにいて、更観光客らしい乗用車の山もあります…なんで? GWは終わったし、夏休みには早いし、何でこんなに混雑しているんでしょう…ちょっとびっくりです。
そうそう、昨日の話しの続きですけれど、今、車の中で私のノートパソコン(Panasonic CF-W2)をバッテリで駆動しています。実質AirH"(旧名称)のAH-H403Cにも必要に応じて電力を供給しつつ既に1時間半位駆動しているでしょうか。で、バッテリはほぼ50%、MobileMeterのバッテリ情報を参考にすれば、最大容量48840mWhのバッテリで現残量は26380mWhだそうです。ツールバーに表示されたバッテリ残量も「あと2.19時間駆動可能」って事で、このパソコン正確にいつ買ったのかちょっと思い出せませんが、やはり2年近く経過していると思うんですよ。それでも、初期の頃とほぼ同じ性能を出しているんですけれどねえ…
MacintoshのPB100ってノートパソコンは確かそのバッテリの性格から、完全放電させてしまうとバッテリ寿命が終わってしまうというものだったように記憶しています。それからしばらくの間はバッテリを完全に放電させてから充電しないとメモリ効果でバッテリが十分に充電されなくなるという時代が続き、最近はいつでも充電ができるというものに変わってきました。家で使うなどバッテリを使わないときは外しておくのが良いという人もいますけれど、私が家でもノートパソコンを使うのは、不慮の停電などでデータが失われる事を避けたいがためなんです。お金があればUPS(無停電電源装置)などを導入すれば良い訳ですけれど(本当はこちらの方がノートパソコンを買い足すより安上がり)、いろいろなことを考えてノートパソコンという選択肢を選んだ訳で、それなのに家で使うときはバッテリを外してなんて、私には想定の範囲外の使い方です。常に本体に装着しておいて、家にいるときは満充電の状態で、時々AC電源を外して使う。充放電に気を使うことなくパソコンを使い続けている訳です。 このパソコンの前はIBMのX30、その前もIBMのものでそれ以前にCASIOのFIVA101、日立のPrius210、MacintoshのPB550c、PB150などを使ってきましたが、どれもバッテリが潰れた経験はないんです。 どうしてSOTECだけ胸を張って「うちのは2年持てば長持ちした方」って言えるんでしょうねぇ。いや、公式には2年って言うのは正しいのかもしれません。例えばテレビだって耐用年数は多分7年って言うでしょう。保障期間は1年ですしね。でも、7年って言うのは法律で決められた部品供給を保証する期間という意味でしかないんですよね。それより以前に壊れるテレビもありますけれど、多くはそれ以上持つのが普通。でも、「うちのテレビは10年持ちますよ」とは公式コメントできないって事と一緒なんでしょうか…うーん、兎に角、公式見解として2年持てば立派というのは理解できます。でも、希望としては本当は4年位持ってくれよって事なんだろうなぁ(自分の気持ちがいまいち整理できていない)…
ほかのノートパソコン使いの人はバッテリのもちはどうなんでしょう。
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