The Green Hills of Earth
2004年11月07日(日) |
報道とゴシップを取り違えないで欲しい |
新潟の中越地方の被災地では、震災によって川の流れが変わったり土砂崩れなどの影響で自然ダムが形成されています。その自然ダムが降雨などにより決壊の危険が叫ばれ始めました。震災後孤立していた人々や、車に寝泊りしていた人たちは自衛隊が河川敷に設営したテント村に非難していたのですが、その決壊の危険性から、設営地を撤去移転する事となり、テントに住まわれている方の「落ち着けない」「面倒」「地震の次は水害。もう大変」と言う嘆きがテレビの報道(というより報道の名を騙ったゴシップ番組なんでしょうね)で垂れ流されています。
住民の方の不満、不安はもっともな事で、それを拾う事は大切な報道の仕事かと思います。しかし、自然ダムができたのは、それこそ自然のなせる業で、誰もがその地区がダム湖になってしまうとは思わなかったのではないでしょうか。だからこそその河川敷にテント村を設営したのでしょう。確かに結果論から言えば、その地域がダム湖になってしまって、雨が降って増水したら今のテント村は危険な場所だといえるでしょう。しかし、そんな予想がついていたらそこに作る面倒はしなかったはずです。 避難された方の目で見れば、やっと避難してきた。家を失った。これからどうなるのか。そんな不安の中で、安心して住まえる場所もないと怒りがこみ上げてくる気持ちは重々わかります。その気持ちもわかった上で、行政や自衛隊がどのような努力をしてきたか、そういう事もきちんと伝えないというのはどうも正しい報道ではないように思います。昨日の「残酷とは」でも書いたことですが、片方の目(個人の目)から見たボトムアップの視点ともう片方の目(行政の目)から見たトップダウンの視点は決して同じになる事はないのです。そして個人の不満は不満として取り上げるけれど、全体を見渡したトップダウンの視点で行政は正しく動いたのかどうか、そこに野次馬的第三者としてメスを入れられるのかが報道の仕事ではないかと思うのです。 私たちは、義援金や物資援助やボランティアをするという即物的な援助しかできません。しかし、報道と言う名前をつけた場合、自衛隊とともに行動をしたり一般の人が入ることのできない場所にまで入り込んで取材ができるのではないでしょうか。
テレビを見ていると「何をやっても後手後手の役人が、いい加減な調査で河川敷にテント村なんか作るから、避難民はこうやって振り回されるんだ。本当にいい加減にしてくれよ」…そういう方向に視聴者を誘導したいという意図が見えます。しかし、あまり調査に時間をかければ「いつまでもテント村さえ設置されない」と批判されるし、調査をしなければ思いがけないトラブルに見舞われます。何をしてもある人は満足するけれど、ある人は満足はしなでしょう。100%が満足する事はありえない訳です。そして満足しなかった人が「だからお役所仕事は」と叫ぶ訳です。でも、本当にそうでしょうか。個人の視点であるボトムアップの視点で個人一人一人が満足したかと問えば「満足しなかった」と言う答えが返るかもしれませんが、行政の視点であるトップダウンの視点で個人一人一人ではなく、多少の不満はあるにしろ、的確な行動ができたかどうかに対しては概ね満足できる答えが出ているのではないかと思います。これから補償の問題や復興の問題など問題点は山積しているでしょうけれど、今現在やれることはやっていると評価しても問題はないと思うんですけれどそれは間違っているでしょうか。
現在テレビではそのボトムアップの意見だけを取り上げて、トップダウンからの成果などは殆ど伝えられていないように思います。安易に「お役所仕事だから」と言う結論に意見を誘導するのではなく、きちんと仕事を評価すると言う姿勢がなければ、今のテレビ番組は「報道ではなくゴシップ番組である。したがって信頼するに値せず」と言う意見にならざるを得ません。そしてそれらゴシップ番組に対し「避難民を視聴率稼ぎの食い物にするな」という憤りさえ感じる次第です。
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