The Green Hills of Earth
2004年04月30日(金)
(人質事件のこと) / 掲示板 / 三菱の決断
イラクの人質事件、その後はどうなったのでしょうか。ハイエナみたいにただ話題になること、視聴率の足しになることにしか興味のないマスコミは、もう話題性のなくなった人質だった人たちには目もくれず、だれが年金の支払いをしていなかったかに向けられています。 昨日、あちこちを拝見していて、片桐久仁彦さんの「Welcome! Welcome to my world! というページに辿り着きました。そのページの「お父ちゃんな日々」の4月26日に氏が愛読しているというメルマガの内容が転載されていたのを拝見した次第。その文章を私が勝手に抜き取ると、書かれた方の意見をも曲げてしまうかもしれませんので、是非、皆様もこのリンク先をお読みになって著者(井筒周さんと言われるらしいです)の書かれた事を自分なりに理解してみてください。ここでは皆様が自分でその文章を読まれたという事を前提にお話を書きます。リンク先を読まない場合、誤解を生じる危険性があることを重々承知してください。それは私の意図することではありません。 結論から申し上げて、マスコミや親の事については同意しますが、それ以外のところでは私とは正反対の主張をされています。私には、その文章は、個人レベルの話と国レベルの話というレベルの違う話を個人レベルの話の中で論じようとしているように思え、同意しかねるというか、米国に住んでいらっしゃるということでしたので、日本での状況が伝わっていないのではないかと思えました。 この文章の趣旨は「たとえそれがどんな人でも、その人の生命や財産を守るのが国の努めだ」と言うことなのだろうと思うのですが、まず、そこから私とは意見が違います。 勧告に従わず、自分の判断で行動をする自由や権利は間違いなく個人のものです。個人の生命や財産を守るのは国の勤めでしょう。しかし、それは無制限のものでしょうか。こう書くと話がややこしくなる感じがしますので、「日本国はどんな不可能な状態でも、それが成功するかどうかは別として、生命や財産を守る努力はしている。ただ、状況によってはその努力が実らないことがある。その確率は勧告に従わなければ飛躍的に跳ね上がるだろう」と書けば理解していただけるでしょうか。個人を助ける努力は変わらずしている。しかし、それが実る可能性の方が勧告に従わないと小さくなっていくだけなのです。 国の努めは「その努力をすること」であれば、充分満たしているではありませんか。また、これを「守らなければならない(絶対に生かし、財産を没収させない)こと」だと思っていらっしゃるなら、それは間違いだと私は思います。 勧告とは国が責任を持てる限界を示しているものだと思います。それを超えて退去しない人の為に大使館職員など、他の人の命が危険にさらされるとしたら、どちらの命が「守られるべき生命」なのでしょう。 勧告を無視してその国に滞在する価値を見出す人も居るでしょう。ジャーナリスト、写真屋など、そこに価値を見出す人であれば活動すればいいと思います。ただ、そこは戦地ですから突然命を落とす事になる可能性も高いです。助けが必要なときには努力はしますけど、保障は出来ません。でも、努力はしますよ....これだけのことなんですよね。 私達が普段、お隣の藤田さん、向かいの鈴木さんと言う感じで名前と顔を一致させて認識している個人のレベルを国が認識しているかというとそうではないでしょう。それはミクロ的な視野で見た一人一人の認識であって、国という立場では、もっと大きなマクロな視野で国民を塊として見る必要がある訳です。「国民の生命と財産を守る」というときの「国民」とは一億数千万の全日本人を指すかというと、私はそうではないと思います。 例えば高速道路の工事や空港の建設などでも(大多数の)国民が恩恵をこうむるために少数の土地を手放さなければならなくなる人が出たりすることは止む無しということと一緒で、マクロレベルでの「国民の生命と財産を守る」という言葉の「国民」という言葉には(より多くの)という言葉が隠と私は思うのです。今回の人質事件の場合は、「この人たちのために自衛隊を撤兵することはできない。多くの日本人を守るため、この人たちが殺されたとしても、それは仕方がない」という選択が容易にされたはずです。全ての人が一律に幸せになるなんてありえません。どちらか一方が不幸を被らなければならないとき、どちらに「財産を守る権利」があるのでしょうか。どちらにもあるし、どちらにもありません。さまざまな理由でより多くの国民の利益になるとの判断で不幸になる人が決まるのです。余談ですが、この判断が例えば「大臣の地元に有利になるよう」とか「大臣の懐が暖まるよう」という基準で成されてしまうことが多いので政治(家)に対しての不信が収まらないということですよね。そのような基準で「助けない」というのであれば、それは理不尽極まりないことだと思いますが、今回の場合は全く理論的に(より多くの)国民の利益を守った賢明な判断をしていたと思います。きちんと救出をする努力はしていましたしね。 著者は、企業で派遣された人が事故にあえば「業務中の不幸」だけど、フリーランスや非営利団体だったら「無謀で勝手な行動」となる。とおっしゃっていますが、これは意識的になのか、比較する方法を間違えていますね。 企業から派遣された人が、突然事故にあえば「業務中の不幸」でしょう。そしてフリーランスや非営利団体の人だって、突然事故にあったなら「活動中の不幸」とでも言われるでしょう。また、退去勧告が出たのにその場に居座って、勧告に従わずに事故にあったのなら、それが企業から派遣された人かフリーランスか、はたまた非営利団体かなどには関係なく「無謀で勝手な行動」となるでしょう。そのときは、フリーランスや非営利団体なら、自分個人だけの問題でしょうけれど、企業なら企業の責任まで問われることになるでしょう。 上は、この著者の書き方にあわせて書きましたが、私はそこで事故にあった事を「無謀で勝手な行動」だとは思いません。それを自己責任として、きちんと理解しているなら、自分の命ですから勝手に使えば宜しかろうと思います。そうするからには、親兄弟も含めて、きちんと説得して納得させることも「自己責任」の中に含まれていると思うのです。自分の命がもてあそばれるかもしれないと思って、それでも残ったのですから、そうなったとしても本望でしょう。それを私達他人がとやかく言うことじゃありません。しかし、それが「そんなに危ないところだとは思わなかった」とか「自分だけは大丈夫だと思った」「準備が足りなかった」などと無責任で甘えた子供みたいな事を言うから「無謀で身勝手で浅はかな猿知恵のくせに英雄気取りの阿呆」といわれるのではないですかね。その人がどんな職業かなんて関係ないですよ。 成人した大人なら、自分で責任を持って行動をすればいいです。その尻拭いの為に他人をあてにするなということですね。自分でより危険な状況にわけ行ったのですから、その危険はきちんと認識して下さればそれでいいでしょう。ただ、日本という国は幸か不幸か、個人主義の国ではないので、個人に死ぬ自由がありません。今回のような状況で、たとえ「自分は危険を承知でいますが、それでもわたしはそこに行きたいのです。たとえそこで死んだとしても本望です。皆さんに迷惑はかけません」と言って現地に行ったとしても、本当にその人が死んでしまったら、マスコミは喜んで面白おかしく書きたてるでしょうし、どこかの役所などが何らかの形で責任を取らされることになるでしょう。そして、政治家の一部はそれを国会で取り上げて空転させることで、税金と時間を無駄遣いするんです。ですから、権利を行使した結果を個人が責任を取るとはし難い現実がある訳です。だからこそ、日本は欧米とは違うことを認識して、欧米と同じ行動をすることは出来ないか、するにしても多大な労力が必要であることを理解し、それを解決するように実行するべきだと思うのです。それを怠って、都合のいいところだけ「自由」を叫ぶからバッシングされるのでしょう。 確か野田知佑氏が書いていたことだと思いますが、世界中をカヤックで旅をする冒険家が、日本の沿岸を漕行していたら、海上保安庁の人が来て「この辺りは危険だから漕行をやめてくれ」と強制的に中止されられたのだそうです。これがアメリカならコーストガード(沿岸警備隊:軍隊予備軍)が来て「そうか、ここを行くのか。それならこのポイントではこれに注意して、あそこではこうしたらいいと思う。幸運を祈る」と言って止めはしないだろう。と言ったそうです。どうして海上保安庁が止めるかというと、ここで人に死なれては自分(海上保安庁及び、担当者)の責任になるからだし、コーストガードが止めないのは、それがその人の命だから、その人がやりたいと思うことを止めはしない。多分死ぬだろうけれどね。ということだそうです。これが何かの例えになる事を祈っております。 親は世界中の人を敵に回しても子供を助けたいと思う。それは同感です。そしてマスコミに対しての意見もほぼ同じでしょう。マスコミは「真実の報道」という役割を果たしていないように思います。くだらない目先のことにだけ目を向けて、ゴシップと報道を混同しているようにしか思えません。 議員が「掛かった費用を払ってほしい」と言ったのは、あまりにも無責任な自己満足の結果としてこれだけ時間と労力と税金をかけて救出をしたのに、あまりにも反省の色がない、一部では自作自演の茶番だったのではといわれるような今回の事件にたいしての腹立ちがあったんですよね。国民だから助けるのは当然という態度もおかしい。「血税」を使っていると認識してほしいということではないかと思います。 もし、政府は何もしていないと思うのであったら、もう議論の余地はありませんが、それは愚かな間違いでしょう。その結果が出たかどうかではなく、その経過として職員が電話やインターネットなどを通じて情報を取得、解析し、現地に人を派遣して、さまざまな国へ働きかけをしているんですよね。結果が全てではありません。結果を伴わなくともその行動には費用が掛かっています。そして、結果がないように見えても、もし政府が全く「自己責任ですから政府には関係ありません」としていた場合も同じように解決していたでしょうか。ここで「政府は何もしていなかった」などと言う人がいるのであれば、その人は考えを改めるべきだと思います。 著者の方は米国在住13年だそうです。米国のやり方にはもうかなり慣れていることでしょう。その考え方からすると日本はアホちゃうかと思う部分が多いのは間違いないです。これに限らず、東洋思想は西洋人からは理解できないものなのですから。日本は土台が変わっていないのに、一生懸命西洋の真似をしようとしている状態である訳ですが、結局は日本人は日本人なんですよね。目の前で個人主義的なことをする人がいたら疎ましく思う人が大半のようですし、多くの人は失礼ながら「都合のいいところだけ」西洋かぶれ名のではないかなと思うのです。 海外生活が長くて、日本人の考え方がおかしいと思うなら国籍を捨てた方がいいんじゃないでしょうかね。その方がしっくり来ると思います。ええ、最後の部分は捨て台詞ですよ。
新しいリンクに張り替えました。 完了報告です。 三菱自動車はダイムラークライスラーが予定通り増資をしてくれていたら廃止候補の筆頭となる予定だった「パジェロ」の存続を決めたそうです。 パジェロ以外にギャランやディアマンテというセダンも不人気で、昨年度はパジェロが年間で6,000台、ギャランとディアマンテはそれぞれ年間2,000台以下と無残な成績を残していたそうです。年間2,000台って、乱暴に言ったら月平均160台程度しか売れていないって事ですよね。一ヶ月で、ひとつの都道府県辺り40台くらいしか売れないんですよ。物凄くレアって感じがしますね。 (車の名前がずっと思い出せず、先程、ネットを検索して漸く見つけたのですが)1982年から発売されたコルディアとトレディアという車がありました。トレディアはランサーに変わる主力大衆車としてデビューしたのですが、初年度でも15千台しか売れず、1988年に生産中止となるまででも42千台しか売れなかったとの事。コルディアは1年早く1987年に生産を終了し総生産台数は33千台という惨敗だったようです。 トレディアを例に取れば、6年間で42千台の内初年度に15千台を売っている訳ですから、残り5年間で27千台を売った勘定ですね。年間5千台平均となりますが、実際には最後の数年間は「年間」で「全国」で百台売れたかどうかの超ウルトラ不人気車だったと記憶しています。そんな感じで、兎に角、三菱は不人気車種が多すぎるように思います。 なぜなんでしょう。私の考えは外観デザインが悪すぎる。これに尽きます。 バイクでも車でも、極論すれば、所有者は外観を見ているより座って運転していることの方が多い筈です。ですから、バイクならメーター周りとタンクの上面が、車ならシートのすわり心地とコンソール周りのデザインとハンドルのさわり心地がよければそれで満足が出来る筈です。あくまでも「極論」ですよ。 しかし、私にとって三菱の車は、その確認をするために車に近付くことを拒否しているんです。その生々しいというか、神経を逆なでするようなデザインの外観がです。 そのデザインが好める人には、とても気に入るデザインなのでしょう。他のどのメーカーにも成しえない、個性あるデザインのメーカーと映るでしょう。しかし、私の偏見で言えば、三菱の車のデザインはあまりにも両極端に意見を分けてしまうように思います。実際に車の性能を「走る、曲がる、止まる」だとしてしまえば、どのメーカーのどの車だって大差はないでしょう。それなのに売れる車と売れない車が出来るというのは、そのような「人の好みに訴えかける」訴求力があるかどうかということに掛かってくるんじゃないですかね。 先にも書きましたように、私には殆どの三菱の車はその外観デザインだけで、これ以上近づきたくない。見なくても良い。と思ってしまいます。何も我慢してその車に近付かなくても、他のメーカーに幾らでも車はあるさ。ということです。日産の車もあるところでは三菱と似たり寄ったりなんですけれど、でも、日産は下手なデザイナーとうまいデザイナーがいて、うまいデザイナーの車はとても魅力があるんですよ。 三菱も日産を見習ってホンダのデザイナーを引き抜いてみたらどうですか。そうしたら巷にはホンダの車みたいな日産車とホンダの車みたいな三菱車とホンダの車が走ることになりますが、今時ですから誰もそんなに気にしないと思いますよ。ここでいすゞにもう一度乗用車部門へ復活してもらって従来の様にホンダから乗用車を供給してもらい、ホンダ四兄弟ってことにしたらどうですかね。そうでなければ、こんどこそ星型12気筒エンジン「栄」を車に搭載しませんか。形式名称はS(akae)-52辺りから始めましょう。出来ればなつかしの空冷バージョンと今時の水冷バージョン、又はスズキの協力を得て油水冷バージョンのエンジンなんかも面白いかもしれません。スペースギアみたいな車に星型エンジン積んだら受けると思うんですけどねぇ。その時は速度検出はピトー菅で、そして声帯マイクと骨伝導スピーカーによる携帯電話接続システムなんかお願いしますよ。当然ながら新しい車の名前は「零zero」ですね。次には(いい加減ですが)「疾風」「鐘馗」「飛燕」「雷電」辺りがいいですね。ふそうには「屠龍」や「一式陸攻」「弐式大艇」なんてモロの名前を付けたらいかがですかね。そしてモーターショーには「キ-86」などの試作ナンバーを出しましょう。でも「桜花」「回天」はやめておきましょうね。大問題になっちゃうかもしれないから。 閑話休題 兎に角、日本人の為を考えて再生を目指すというのであれば、もっと万人受けするデザインの車と、奇をてらわず、電気仕掛けにおぼれず、基本をおさえた良いものを作ってほしいものですね。
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