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2021年09月06日(月) |
儚きぞ2020オリパラの悲哀 |
9月5日、東京オリンピック、パラリンピック全日程が終了した。
1964年の東京オリンピック時はまだ5歳で、オリンピックがまだ何たるかも解らず、白黒テレビに映っていた水泳競技を朧げに記憶していただけ。 1972年は札幌冬季オリンピック。 多感な13〜14歳の自分には最も印象深い自国開催のオリンピックとなった。 70m級ジャンプ競技でメダル独占。笠谷、今野、青地という選手名を今でも覚えている。 「日の丸飛行隊」というキャッチフレーズもこのオリンピックが発祥だ。 フィギュアスケートのアメリカ選手ジャネットリンも印象深い。 そしてトア・エ・モアが唄った『雪と虹のバラード』が思春期の琴線に触れた。 当時のオリンピック記事の新聞切り抜きは今でも大切に保管している。 1998年は長野冬季オリンピック。 自国開催で初めて現地まで足を運んだ大会。 東京から長野新幹線を使った。 長野駅前では盛んにピンズ交換され、グッズもいくつか購入した。 マスコットは確かスノーレッツだったか? 一方で競技に関してはあまり興味は湧かなかった。誰がメダルを獲ったか殆ど思い出すことが出来ない。 自国開催オリンピックは競技そのものより、国際的祝典に自ら参加出来る喜びこそ意義があることを悟るようになった。
そして、2021年東京オリンピック。 57年ぶりの地元オリンピックであったが、コロナ文革原理主義者の破壊活動によってすべて台無しにされてしまった。 ほとんどが無観客試合。更にオリンピックに付帯するイベントは完全に中止。 祭りとしての存在意義はまったくなくなった。 テレビ中継だけが辛うじて維持されたが、殆ど視聴するに値せず。 観客のいない競技場の画像には熱気の欠片すら感じられず、悍ましいコロナ文革原理主義という不気味なカルト宗教イデオロギーによって、重苦しい空気が支配していただけ。 そもそもテレビ観戦だけだったら世界中どこでも同じ。 肌でオリンピックの雰囲気を感じられる事が自国開催の大きな意義なのである。 結局、長野オリンピック時に存在した世界各国の観衆との交流もピンズ交換も一切なく、コロナ文革紅衛兵たるマスコミの「反オリンピック扇動」でゾンビと化したコロナ脳愚衆のネガティブ世情が祭りとしての体裁を破壊尽くし、砂を噛むような時間が過ぎただけで終わってしまった。 恰も1970年代中国文化大革命のごとし。
1964年の東京オリンピックから1998年の長野オリンピックまでは紆余曲折ありながらも高度経済成長の余力に助けられ、少なくとも「祝典」としての体裁は維持されていた。 ところがこの2021年の東京オリンピックは「祝典」どころか、超少子高齢化で経済的地位を失い、既得権にしがみ付く老害世襲に搾取された日本国民が更なる狂ったカルトコロナ文革原理主義者によって食い物にされる茶番の場と化してしまった。 もはやこのオリンピックは国民を一体化させる歓喜の祝典ではなく、日本人同士を反目、対立、憎悪、差別に駆りたてる梃子でしかなかった。 東京オリンピックは完全にコロナ文革原理主義者の玩具と果てた。 今の若い人達は自分が1972年の札幌オリンピックで受けたような感銘をこの東京オリンピックで享受することはなかったろう。 悍ましいコロナ文革原理主義によってコロナ一色に真っ黒く塗りつぶされた無味乾燥で息苦しく不自由な時間だけが記憶に残る。 何と哀れな青春だろう。 そこまでして若者の未来を台無しにしたにもかかわらず、コロナ文革原理主義者と愚かなコロナ脳にとってはコロナの恐怖を煽ることが全てであって、若者からオリンピック観戦の機会を奪ったことには「そんなこと知ったことか」なのである。
もはや尋常ではない。 そう、まさしく「貧すれば鈍す」である。 これまでの自国で開催されたオリンピックの中で今回のは最もさもしく、貧相で、愚劣な大会となった。 経済力を失い、少子高齢化で若い創造力を失った国が如何に惨めかを象徴している。 「振り込め詐欺」に騙され、慌てふためきながらコロナ文革原理主義という詐欺集団の口座に有り金を突っ込む哀れな痴呆老人如きの今日のコロナ脳日本人にそもそもオリンピックを開く資格などなかったのだ。 騙されているのに気付きもせず、ワクチン接種自慢に終始する馬鹿なコロナ脳愚衆によって数多のイベント、祭りはコロナ文革原理主義者の意のままに破壊され、いずれ気が付けば身包み剥がされて彼らの奴隷、下男に成り果てるのも時間の問題だろう。 今回のオリンピックはその始まりに過ぎない。
この国はもう本当に終わってしまっているのだろう。 次の宰相候補に、このコロナ文革原理主義からの支配脱却を強力に実践出来る者は見当たらない。 ましてや「ゼロコロナ」を喚く無能野党は最初から論外である。存在価値すらない。 冬に向かい、この悍ましいコロナ文革の嵐はますます荒れ狂う。 コロナ脳に侵された国民は自ら墓穴を掘って喜んでその中に飛び込んでいくのが手に取るように解る。 「馬鹿は死んでも治らない」とはこのことだ。
もう、自分の生涯で次の東京オリンピックはないだろう。 いや、遅かれ早かれこの日本という国すら存在し得ないかもしれぬ。 最後の東京オリンピックがこんな陳腐で茶番に満ちたみっともないモノとは想像もしていなかった。 哀れの極みである。
絶望皇太子
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