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2015年05月28日(木) |
憲法9条は調停者オーマへの道 |
BGMにしているラジオから安全保障論議云々の話題が流れてくる。 もの心ついてから不毛な「禅問答」に明け暮れてきた机上の空論。安保論議。 この期に及んでまだやっている。
この「禅問答」のキーワードとして必ず、憲法第9条が出てくる。 これを制定した経緯は検索すれば出てくるのだろうが、取り合えず読んでみるのが一番だ。
憲法第9条 1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
改めて読んでみると神々しい位の文章だ。 とにかく武力に訴えて国際紛争に挑むなと。 そのために一切の戦力は放棄すると。 要するに国際紛争が解決しようがしまいがその結果、一方的に武力を行使されても、日本は同様の武力を以ってして対抗しませんと。 それで日本が占拠され、滅ぼされる結果としても、それを受け入れる義務があるのだと。 そう解釈するのが普通。 これが遍く全ての国の憲法に制定されているのであれば議論も起きまい。 しかし、この条文を採択しているのは日本だけなのだ。それを解っていながら採択したところにこの9条の意味がある。 ということは、世界で日本人だけが「特殊」でなければいけないということだ。 「正義と秩序」を武力なしで実践せよと。 武力なしとはどういうことだろう? たとえば手をかざしただけで相手国の戦意が喪失するとかがこれに相当する。 これは凄い。 日本人は遍く「超人」になるべしという解釈も成り立つ。 この「特殊」性を実践出来なければ意味もない。 これは、日本人が「神」レベルの崇高さを保って自己犠牲のなかで死んでいく覚悟がなければ実践は不可能だろう。 そのための憲法9条なのだから。 もし、その覚悟がなければ何のために70年間も改定せずに留めて置くのか。 議論すべきはそこではないのか。
ではこの憲法第9条を戴いた戦後日本人は、この70年間、「神にも並ぶ超人平和国家」として世界から崇められてきたのであろうか? 否。 世界は日本人をこう呼んだ。 「エコノミックアニマル」 銭ゲバ動物である。 神どころか金儲けしか考えない獣として扱ったのだ。 戦後70年、日本人は経済至上主義で生きてきた。これが生業だったのであり、修行僧のごとく憲法第9条を昼夜365日崇めて祈り続けていたのではない。 この条文を実践するため、国家レベルで紛争地帯に丸腰で飛び込んでいった殉職者の話など聴いたことがない。 ただ、金儲けに支障になりそうな紛争地域への介入を避けるための免罪符として9条を使っていたに過ぎない。 「戦後70年間、日本が戦争に巻き込まれなかったのは憲法9条のお陰」というのは詭弁でしかない。 誰かに肩代わりしてもらった事が恥ずかしくて言えないだけだ。
戦後、日本人はこの憲法9条を「都合よく」解釈して、自衛権は「戦力」ではないと適当に誤魔化してきた。 「陸海空その他の戦力は一切保持しない」のになぜ自衛隊が存在するのか? 戦車を特車と言い換えたり、攻撃機を支援戦闘機と言い換えたら「戦力」ではないのか? でもそれが「エコノミックアニマル」日本人の生き残る現実的なレベルだったのであろう。 誰も崇高な修行僧になって死にたいとは思っていなかったのだ。 世界の「人並み」な生き方を渇望しているのだ。
にも拘らず、どうして憲法9条をありがたく戴き続けるのだろう。 たぶん、何かと都合がいいのだろう。 とりあえず9条は神棚に飾っておくと、いずれ御利益があるんじゃないかとね。 結局、護憲派も改憲派もその「都合」のために、9条を弄んでいるに過ぎない。
中国が領有権を主張する南沙諸島のサンゴ礁に中国当局が長大な軍用滑走路を築いているという。 それをアメリカが牽制し、偵察活動を行なっている。 これがエスカレートして武力紛争に繋がる恐れがあると。 テレビで聴いたのだが、この「アメリカの戦争」に日本が加担するのではないかと危惧するとかなんとか。 今、トレンドな「集団的自衛権」というやつだろうか?
「エコノミックアニマル」が凋落して「エコノミック」が外れて、ただの「アニマル」になった日本。 その国がこれまでどおり、世界で「人並み」の生き方をしたいのなら、もう少し自分の身の程を考える時に来たと考えないのか?
南沙諸島の中国軍基地の存在は「アメリカの戦争」ではなく、日本そのものが生き残るか否かの「戦争」に拘わること。 この辺りは昔から日本の戦略物資輸送ルートで、ここを押さえられれば日本は枯渇してしまう。 かつての太平洋戦争がそうだった。 中国がここを軍事的に支配するということは、日本の生命線を絶つ事と同意語。 だからこそ中国は懸命に南沙諸島に固執するのである。 もはや南沙諸島にアメリカは関係ない。 ここが中国の支配下になったところでアメリカ本土は痛くも痒くもない。 中国はしきりに太平洋を中国、アメリカで2分割して権益を分かち合おうと呼びかけている。 もし、中国から多大なる利潤を得られる確証があれば、アメリカはその提案を受諾するだろう事は想像に難くない。 アメリカにとってもはや旨みのない「アニマル」日本。 そんな尊敬に値しないクジラや海豚を野蛮に殺す国とこれまでどおり多大な負担で守ってやる義理などないのだ。 中国のほうが美味しいに決まっている。 南沙諸島を押さえられてしまえば日本は「個別的自衛権」を行使する前に、石油が枯渇し、戦わずして中国の軍門に下る。 そうなれば日本は中国の植民地として、また積年の恨みを晴らす対象として完膚なきまでに暴力的に支配されることは必至だろう。 これを想定すれば南沙諸島の問題は「日本の戦争」そのものであることが解る。 そしてその「戦争」はすでに始まっている。圧倒的に中国有利な情勢でね。 日本こそ、南沙諸島に「不沈空母」を作らなければ生き残れない。 アメリカはいずれ日本を見放す。その時は単独で己の実力でこの諸島を支配する闘争に赴かねばいけない。 「日本の戦争」として。 「集団的自衛権」云々という言葉遊びに明け暮れる国会議員にこの「現実」は見えていないのだろう。
戦後70年。この5月には欧州で様々なイベントがあったという。 敗戦国ドイツの大統領は旧ソ連兵霊廟の前で感謝の意を述べたと伝え聞いた。 「ドイツをナチスの手から救ってくれてありがとう」と。 つまり、ドイツは旧ソ連兵がしたドイツ国民に対する残虐非道な殺戮、レイプに対してもさえ感謝したのである。 悪いのはナチスでそれを解放した連合軍は善であると。 これが戦後秩序の根本であると。 結局、総力戦で敗北し、無条件降伏した国家は、たとえ真実がどうであれ、戦勝国には未来永劫屈服しなければいけない義務がある。表面上講和したとてその原則は変わらない。 「勝てば官軍。負ければ賊軍」。 だから、非戦闘員日本人を何十万人も焼き殺したカーチス・ルメイも「英雄」。 これを覆すのは、再びかつての戦勝国に宣戦布告して、相手を無条件降伏させるしかない。 それ以外に「日本の主張」を世界に認めさせる策はない。 そんなことが出来るか否かは論を待たぬ。
8月あたりにまた戦後70年の談話なるものをやるのだろう。 だが、いくら「正論」を叫ぼうが、負けた国に「正義」は語れない。 北方領土はロシアが戦争で勝ち取ったもので日本に還す義理はないのだ。 なぜなら戦争に勝ったから。 歴史も秩序も「戦勝国」が作る。 そこに「集団」も「個別」もへったくれもない。 負けたら終わり。
「集団的自衛権」行使の法案が通れば、日本は「戦争が出来る国」になってしまうという人も多い。 でも心配御無用。 この超少子高齢化の国に戦争など出来るものか。 戦争とは一種のトランス状態で国民全体が熱に魘されたように走り出さねば始まらない。 その中心が若年者。 昭和初期、日本の農村部には家を継げない貧困次男坊が無尽蔵に近いほど居た。 彼らは新たな生きる場所を求め、満州や南米、北米に移民として渡っていった。 つまり人口が膨張爆発するエネルギーに満ち溢れていたのだ。 戦争もまた同じ。 国家繁栄のためには外へのエネルギーを満たすため新たなフロンティアが必要だった。 無尽蔵に近い若い者のエネルギーが戦争を呼んだ。 彼らは片っ端から徴兵され、「鉄砲玉」として死んでいった。 今、この国にそんなものは微塵もない。 あるのはシルバーデモクラシー。 変化を望まぬ高齢者が静かに朽ちていくためにしかこの国は存在しない。 たとえ、紛争が起きて、自衛隊が戦線に投入される事態があったとしても、第一線が消耗した時点で終わりだ。 なぜなら補充すべき「若く健全で無尽蔵に近い血気盛んな」兵員は何処にも居ないからだ。 そんなもの「戦争」とはいわない。 今、集団的自衛権を先導する者達も、決して愛国者とか戦争主義者とも言いがたい。 単に世襲として支持母体の意向に従っているだけなのだろう。 家業維持優先で動いているに過ぎない。それは集団的自衛権に反対している者達も同じ。 もう、この国に安全保障の実践的戦略家は居ない。 ただただ、現状維持と外からの圧力に怯え、アメリカの妾としてどうやったら生き残れるかに右往左往しているだけ。 エコノミックが外れた「アニマル」には身分相応だろう。
でも日本には憲法9条がある。 「アニマル」から「人間」に昇格するためにはこの神棚に飾っている「御神体」をもっともらしい理由で担ぎ上げ、生き残るための方便に使うしかない。 条文には「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。 これを日本のみならず、全世界に実践するがために日本は存在すると宣言すれば、生き残るチャンスはある。 そのためには、核武装しかない。 憲法第9条を守り、実践するためには、戦争を無効化し、戦争が出来ない世界にする必要がある。 それが核兵器だ。 日本人は核兵器を戦争の道具としてではなく、平和の調停者として配備する。 『風の谷のナウシカ』コミック版に出てきた巨神兵オーマと同じく、戦争を放棄しない国に「神罰」を下すために核兵器を行使する国と宣言するのだ。 それこそが世界で唯一、憲法第9条を戴く国の権利でもある。 新たに憲法第9条に第3項をこう付け加えるのだ。
3、この神聖なる世界平和の掟を有効化させるため、日本は国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使で国際紛争を解決する手段とするあらゆる国に対し、懲罰を加える権利を有する」
これで真の意味での憲法第9条は完成する。 その実践のために戦略核ミサイルを搭載する原潜を少なくとも7隻、世界の海洋に遊弋させ、あらゆる「国際紛争解決の手段に武力を行使する」国に照準を当てるのだ。
これで中国の武力による海洋進出の野望も不可能となり、更にはアメリカの妾からも解放される。 また言葉遊びのような「自衛権」云々の不毛な議論もいらない。 調停者オーマとなれば「自衛」する必要もない。 自衛隊も必要ないし、陸海空、その他の戦力もいらない。 調停者オーマのもつ核は「兵器」ではない。あくまで世界から戦争をなくすための「神器」。 このように解釈することで日本人はやっと制定70年を経て、憲法第9条を実践出来る名実共に「神にも並ぶ超人平和国家」に成れるのである。
経済大国の座を中国に奪われ、ただの「アニマル」と化した日本が「人間」として選択すべき道は、世界平和の実践者としての「神」の地位だ。
絶望皇太子
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