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2002年08月15日(木) 大東亜戦争と人類補完計画

彼岸。

地獄の釜が開き、先祖の霊が帰ってくると言われるこの季節。

果たして生とはなんだ?
死とはなんだ?
生きているとはどういうことだ?

他者の死は認識出来るが、なぜ自分の死は認識出来ないのだ?
自分が死んだ後のことは何故永遠に自分には解らないのか?

この世の全ては自分の脳のみでしか認識出来ない。
だから自分の脳の機能が停止すれば、この世も終わる。
だが何故に他者が死んでもこの世が終わらず、自分が死んだ時だけこの世が終わることになるのか?
自分が死に、この世が終わるのにも拘らず続いているはずのこの世とは何だ?

いや・・。
どこかがおかしい。
この世があり続けるということは自分が永遠に滅びない事を意味するのではないか?
死は他者の死を見聞きすることで実感するものであり、自分が死んだ事で実感するものではない。何故ならば自分の死は決して自分で認識出来ないから。

認識出来ないはずの死は本当に存在する事なのか?

たとえ君が死んだとて、君の葬儀に誰が来て、君の友や親族が何思うのかなど自分には認識出来ない。つまりそんな情況は存在しないのである。
自分の脳で認識する事がこの世の全てであるとすれば、自分の脳が亡くなった後のこの世はあり得ない。
どこかが変だ。

いや、この世が存在しつづけている限り、この世が実感されている限り、死は死ではないのだ。
おそらく、無数の時間線があり、それが何らかの相互乗り入れによって魂は補完され続けている。
死んだ瞬間にその魂は、何らかの力で補完され、別の時間線の「もう一つのこの世」で再生され、何事もなかったように生き続ける自分がいるのだ。

まるで眠りから覚めるように何事もなかったかのように。

今日という日は1回限りでは無く、無限に繰り返される今日なのだ。
人はそれを認識出来ないだけで、実は永遠の今日を繰り返しているに過ぎぬ。

誕生の記憶も死の不安も誰からか植え付けれたものであり、現実には存在しない事象だとしたら?

この身体もこの五感が実感する「この世」と言われるものも、実は幻であって、何者かが提供したフォログラムの中に漂う生命エネルギーの揺らぎに過ぎぬかもしれない。

だとしたら「死」と言われるものも実は存在しないのだ!

永遠にリンクする無数の時間線の中では、始まりも終りもない。
だから「生」も「死」もない。
そのシステムを解明すれば、我らは永遠の安楽を勝ち取ることが出来る。
永遠の子宮の中で永遠に生き続けることが出来る。
この世が永遠であることを認識すること。

これこそが『人類補完計画』の求める魂の座!

生も死もない世界。渾沌の生命のスープの中で漂う喜びを勝ち取るのだ。

死は観念に過ぎず、現実には存在しない。魂は永遠に存在し続ける。
だがそのためにはこの不要な身体を捨て、魂を昇華させねばならぬ儀式が必要だ。
それが人類の歴史、生きるための闘争であったことはいうまでもない。

8月15日。
終戦記念日。

かつて310万人が生きる闘争の為に魂を昇華させた儀式。
大東亜戦争。
あの戦争はある意味「人類補完計画」の実践であった。
そして今、再び我が民族は生きるための闘争に迫られている。

不要な身体を捨て、魂を新たなるステージへ!

これは避けて通る事の出来ない生命の掟である。
しかと心得よ。


絶望皇太子