秋葉原の通り魔事件から一週間が経過して 色々報道されているこの頃。 ゲームやアニメ有害論がまた噴出するかと思っていたが 今のところ、あまりそういう話は見かけない。
事件について報道される度に 何気なく事件について考える。
ワイドショーなどを見ていると コメンテータから理解できないという言葉が飛び出していた。 実際、理解したくはないのだが……。
例えば、加藤容疑者に殺傷された被害者遺族の方が 加藤容疑者に殺意に近い感情を抱いたとしても それを理解できない、と言う人は少ないのではなかろうか。
ところで、現代の日本において 生きているというのは二つの意味を持っている。 一つは生命活動そのもので、 もう一つは社会的な命。 ドラマや映画なんかで、社会的に死んだ、という言葉を 時々聞くのだから 逆に言えば社会的に生きているという言葉は成立するはずだ。
生命活動としての生と社会的な生を イコールで結びつける事は出来ないが 少なくとも、両者は深く結びついている。
社会的な命を誰かに奪われた時 奪った相手に対して強い感情を抱くのは これも理解の範疇であると思う。
では、もしも社会そのものが、自分の社会的な命を 圧迫(迫害)し続けていたと考えているのなら その感情はどこに向くのだろうか。
恨みたいのに恨む相手がいない状況。 定義上は存在しても実態の無い相手は 恨むに恨めず、感情の行き先は別のところに向かう。 誰でも良かった、と加藤容疑者は言ったが 社会で生きている全ての人間が対象だったのではなかろうか。
全てが嫌になったと言ったとき それなら何故自殺しないのか、という言葉もわからなくは無いが。 誰かを恨んでいるから、 自分を殺せと言っているようにも聞こえるわけで。 無関係な人間を巻き込む位なら、という前置きがつけば 全面的に同意したいが、 刺した当人にすれば無関係ではなかったのかもしれない。
何にせよ、行為を正当化する気はまったくないが。 ここが日本で、法治国家である以上。
とりあえず、破壊衝動は誰しもが持っているのだが それを行動まで持っていく前に 抑制している何か(多分理性とか)が 目に見えるものではないことが少々怖い。
見えないのは当たり前なのだが。
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