先日、何気なしにふと思ったんですけど。 「悟りを開く」あるいは「悟る」という言葉があります。 それに対して 「間違ってたらどうするんだ?」 ってこと。
まぁ悟りということの元来の意味は正確には知りませんが イメージとして 「その事に対してすべてを解る」 的なものがあるわけなんですよ。
悟りを開くって… 悩みぬいた末、一つひらめきを得るようなイメージでしょうかね? 数学の問題悩んでたら突然解法を思いついたような。 (ちょっと違うか)
いや、ちょっと前までは 「その事に対して絶対的な答えを得る」 という風に思っていたわけですが 少し考えるとあまりにもそれは愚かしい考えだとわかったので。
今にして思えば 「その事の根本を本当に理解する」 というような事なのかも知れないなぁ、と。
そもそも何でこんなこと書いたかというと 悟りについて考えてた折、こんな話を聞いたから。 「ある(匿名)病院の先生が 末期がんの人に死について語るという話。 並みの人には出来ない、きっと悟っているんだろうな」と。 それで悟りってなんなのかな…とか思ったわけです。
その事について悟った人間が 他人の意見を聞いて、 それに対する認識を変えていく事はあるのか、と。 悟りが絶対的なものであるならば (相対的、普遍的でなくても、個人的にで可) ともすればそれは悪い意味で頑固な信念になってしまわないのかと。
悟りきった事には間違いがあったり 修正の余地が無いというかもしれないが… ありえないですよね、普通に考えて。 悟ったという感覚が個人の物であれば特にそうだし 仮に他人がこの人は悟ってるなんて思っても やっぱりそれはその人個人の感覚でしかないわけです。 100人居て100人に共通の意見として通るものは もはや人が『考える』性質のものではないのではないかと。
ちなみに上記のもので算数、数学などというものがあるきもしますが これは新しく『考える』部類ではなく 既存のものを『習う』といった部類に入ると思うので…。 事実、新しい法則などを発見するにあたっては 100人が100人同じ考えで進むのではなく 紆余曲折を経て答えを得るわけですから。
まぁ…何が言いたいわけでもないんですがね。 悟りを開いた、何かを悟ったなどと考えるのは 本当にいいことなのかな…と。 変わっていける事がすばらしいとおもいますから…
|