欲求。 欲望。 言い方は色々あるが、本能としてあるモノであろう。
例えば、どこの番組だったか、この前「サスケ」と呼ばれる アスレチックコースを攻略するという番組があった。 人それぞれ、人生色々。 テレビ局自身による脚色があったかどうかは知らないが、 それにものすごくかけている人もいる。 これに限ったことではないが、難しい壁に阻まれたとき、 これを克服したときに何があるのか、 そんな言葉で語られることが良くある。 …言ってしまえば自己満足なんだろう。 最後に残っているものは。
自己満足という言葉。 結果として負のイメージで取られることが多い。 『結局は自己満足だ』といったような 「結局は…」でしかない。そういうイメージが付きまとうから。 だけど、僕は自己満足は生きていくのに必要だと思う。 例えばボランティアについても、自己満足であると思っている。
欲求というもの。 極論から言えば、生きようとする欲求。 それさえも欲求であることには変わりない。 欲求を満たされたときに感じるものこそ、満足であり、 自己が満足するから自己満足である。 ならば欲求を人生の目的とするならば、自己満足さえも そうといえるのではないか。
人は目的があるから生きていける。 欲求があるから人生を楽しめる、そう思う。
ボランティアについても同じではないだろうか? (新法の奉仕活動の強制はともかくとして) ボランティアで評価されるのは 人のために役立ちたい、という欲求のほうではないだろうか。 だからこそ、僕はボランティアを自己満足といったのだが。
人生においてどんな道を進んでも、 自己を満足させることができるかどうかが重要なのではないか。 そのなかで、例え他人には評価されなかったり、 親には反対されたりと。 結局はそのことがいかに普遍的であるか、 それこそが一般の判断基準でしかないのだから。
趣味にしたってそうだろう。 基本的には収集癖とかいう種のものは自己満足。 結果として他人には受け入れがたいものの収集であったとしても 自分が満足できるのであれば。 逆にいえば、他人が、例えば何を収集していても 結局は自分も同じであることを認識するべきではないのか。 もう少し言えば人生の筋道を創るとも言える 欲求の一つのカタチであると。
これから先、どんな道を進むか。 今のところ分からない。 分からないだけに迷う。同時に不安である。 時として考えるのが、最後に私は満足して逝けるか。
欲求のままに生きていくということ。 時として、後悔の対象となる。 だけど、人生をかけられるような出来事に出会わぬまま、 終焉を迎えるのは…。
人生をかけるということ。 今の日本でいえることといえば… 一番簡単なのが、仕事であろう。 これは僕が男だからということに起因するのかもしれないけど。 あくまでも、普通に、いや、簡単に発見できるものが、である。 例えば趣味であったっていい。
自己満足という、一つのカタチ。 欲求を満たされたときに発生する一つの感情。 どんな生き方をしている人たちがいても バカには出来ないのかな。 かけることの見つからぬ僕よりは はるかに勝っているのかもしれないのに。
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