1日雑記

2001年06月12日(火) 本もろくに読まず、英語もダメな俺が何言うか…

海外の文学、小説でもいいや。
日本語に訳されて、それを読んで面白かったから
その作家の大ファンになった。
なのでその人の作品はすべて読むようにしている。
(日本語訳の方ね)
…まぁ…そんなに多くもないと思うけど…
少なくとも幾人かはいそうです。
間違ってないだろうか。
っていうかさ、ほんとかそういうものって
訳された時点でその人の作品じゃなくなっちゃわない?
聖書なんかでもそうなんだけど。
ホントに解りたければ、その作品を読むためには
その国の言葉を「完璧に」理解する必要があるんじゃないだろうか。
小説とか長いのならまだいいとして、
例えば詩とかね。
日本だってもののないよう以上に韻や響を重視したり。
例えば短歌ね。
言葉で伝える「だけ」なら文字を制限する必要なんてないんだし。
詩とかだって、言葉の羅列、
それに基づいた空間の想像。
そういうものがこめられてるのだろうし。
…そういう面では言葉だけでなく、
その国の文化、特にその作者の生まれ育った場所の文化を
学ぶ――というよりは感じる――必要があるのではないかと。
更にいえば感じることは生まれてまもなく吸収するもの、
そういうものが大きいのではないかと。
海外の曲、食、酒、文学なんかに対しても
日本人は理解していないとか。
結局文化を理解していないと感覚、いわゆる価値観みたいなものが
根本的にすこしちがうのだろう。
もっとも残念ながら日本人は金出して高いものを…、
ネームバリューというものをつよく求めるという面があるのだが。
金銭主義で文化の誇りを買おうとすれば
誰でも侮辱された気になるよね。
ちょっと話がずれたが、文化を理解することが
言葉を理解し、ひいては作品を理解するということに
つながるのではないか。
残念ながら文化を後天的に、完全に理解することはできない。
当然作品に対する解釈も不完全であるかもしれない。
…まぁ逆にいうと完全である必要はないんだけどね。
作者の意図とは無関係にすごければすごい。
感じるものがあればそれを感じる。
日本で考えてみよう。
例えば短歌。
非常に興味深いんですよね、こういうの。
限られた「場」のなかで「音」と共に「言葉」をつくる。
古典についても今よりもボキャブラリー(語彙)が豊富…
というより綺麗なものが多かった。
海外の文学だって、その言葉のつながりの中にある美しさ
そういうものがあるのだろう。
言葉は文化だからね。
そういう面で日本はすばらしかった。
あくまで過去形ですけど。
前に言葉と文化のつながりを話してた先生がいて
「これだけ不愉快な(壊れた)日本語が使われるなら
 日本もだめになるな」
とかそんなことを言っていた。
聞いたときは言葉一つとって、日本が崩壊とか言うかね?
って思っていましたが。
なるほど、文化という面においては
言葉が壊れていくのと同じくして文化もこわれているな。
もっとも今の日本は文化を必要としていないみたいではあるが。
また話がずれた。
言葉を理解することは国際化、という面だけではなく
視野を広げるという面でたいせつなんだろう。
同時にこれはいろんな人が言っていることでもあると思う。
通訳、実用なんかの面では翻訳機や通訳がいれば事足りる。
学ぶということは自分のため
(まさに私利私欲)のためでしかないのだろう。
それは金銭的なんかのためではなく
純粋に文化、そこにある、芸術作品(当然文学なども含む)
を理解し、その中に「何か」を見ることができる。
それだけのために。


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