前にちょっとの違いが超えられない、とか書いたんだけどさ。 そのときにきっとそれは年の功ってやつの所為なんだと。 今日はふと電車の中で考えた。 この差、これって天才と凡人の違いなのかと。 99の努力と1の才能。 違う言い方をするなら100の努力と1の才能。 つまり100までは努力だけで作れる。 その先の1。これが天才を作るすべてなんじゃないかと。 これをもつか持たないか。これが…。 凡人が普遍的に100の力を持つとは思わないけど。 最高が80くらいの人もいるかもしれない。 まぁ凡人の一番すごい人が 100というキャパシティを持つとして 天才は101のキャパシティを持つのではないかと。 この1の違い。 専門の、それもかなり極めたものにしかわからない、差。 1というもの。 100の先。それは突飛にも見える発想で 十人十色の違いを持ち 1〜100までよりも複雑なパターンを持つ。 1は…もちろん時間をかけて作り出されるものだとは思う。 否、時間によって目覚めるというか…。 最後の1というものを作り出すのは やっぱり遺伝だったり、生まれつきによるところがほとんどだと思う。 でも後天的に作られる場合もあるんじゃないだろうか。 特に劇的な変化を遂げたとき。 …その変化が今までの経験と自身と誇りをすべて打ち砕いたとしても。 たとえばソレをやり始めの人がいきなりかなりの成績を残す。 これって早熟か遅熟かの違いなんじゃないのかなぁ? この人がとんとん拍子に成績を伸ばしていったとして 必ずトップになるとも、ね? 僕は天才のモノっていうのはその道の達人にしか わかんないモノだと思う。 一般のひとが見て(聞いて)「この人は天才だ」と思うとき、 それはたとえば詳論かが下した評価に影響されたり 何かしらそう判断する先入観があってこそではないだろうか? 一般に評価される(つまり有名な)天才とは 当然100相当の努力が存在して 普通の人はその100相当の部分を見てすごい、と評するのでは? 歴史的な天才のものと、 巨大な評価はされなくても、相当の努力はしてる人のもの。 明確に違い(優劣)を言える人は少ないはずだ。 その努力をしている人がその道にすべてを懸けるくらいの人なら その人は明確に、確かに先人と自分の力量の差を感じると思うが。
…人の力が数値化できるなら誰も苦労はしないけどね。 ま、上記のは概念的なものだと思ってください。 その感覚でも伝われば光栄ですが。
そうそう、うちの学校に 「このフロアは禁煙です」っていう張り紙があるところがあってさ。 ツッコミたくなるのは… 禁煙フロアに灰皿置くなよ って、ところですかねぇ。
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