想
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2001年04月03日(火) |
家庭の必要性について語ってみる。 |
何十年か前は、日本でも家族の役割分担がはっきりしていたと聞く。 父親が外に働きに出、母親が家事全般をし、家の中にいる者(老いた者や母親、あるいは年上の兄弟)が小さな子どもの世話をし、大きくなった子どもは将来のために学校に通った。また、子どもはある程度成長すれば、他の家に嫁ぐか、職に就いた。大体において、この図式が崩れることは少なかったと思う。時にはそれほど大きくない子どもが親や家族のために稼ぎに出ることがあったとしても。 それはすなわち、家族のメンバーそれぞれが、互いを頼って生きていたということだ。家族とは、生きていくためにまさにかけがえのないものだった。 しかし、少し前からだいぶ事情が違ってきている。食事は母親が作ってくれなくてもコンビニやその辺の店で買うことができるし、第一、母親やその代わりの人間が常に家にいるとは限らない。老人がいる家は少ないから、多くの場合子ども達は彼らとの接し方を(そして老いた者をいたわるということを)知らずに育つ。学校に行くことが子どもの将来に結びつかないケースが増えているし、だからかもしれないが、卒業してすぐに就職したり結婚したりするわけでもない(場合が多い)。さらに最近では、学校に通いながら簡単にアルバイトができるようになっている。食費くらいは稼げる、という点で、これは大きな変化だと思う。 こんな状況では、多くの子供たちは家庭のありがたさを感じる機会が少なくなってしまっているのではないだろうか。とりあえず住める所である形ばかりの家と、自分で稼いだ金さえあれば、毎日の生活は成り立ってしまうのだ。自分は独りでも生きていけると錯覚してしまうことも、大いにありうる。 もちろん、家庭という場は、最低限生きていくということ以上の意味を持っている。家庭は本来、人が身体的・社会的に成長するのと同じくらい、心理的にも成長するべき場であるはずだ。 だから、家庭の温かさを知ることなく成長した人間に、他の人間を大切にしろと言うのは難しい。また、自分を大切にすることの意味を伝えるのも難しいかもしれない。今のように社会が荒れ放題のときこそ、健全な、あるいは望ましい家庭のあり方というものを見直さなければならないだろう。
・・・こんなこと書いちゃって、「くだらねーこと言ってやがるコノヤロウ」とか「アホちゃうか」とか思われないだろうか。どきどき。
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