想
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2001年03月26日(月) |
おそれを知らず、江国評。…ただの感想です。 |
本を読むことがこの上なく好きだ。特に、推理モノではない小説。最近はSFもよく読む。エッセイなんかも良い。 だからなのか、人生の中の今・この瞬間は、自分だけの小説の中の一節みたいなものかー、なんて、考えたりしてしまう。他の人からはそんなにタイソウな人生を歩んでいるようには見えないのだろうが、自分にとっては他のどんなに素晴らしいものとも代え難い、超個人的な大事件の連続の、毎日なのである。誰もが持っている、各々の秘蔵の一冊。恋愛なんかしちゃったりしていれば、それこそ恋愛小説みたいな日常が繰り広げられる。書き換えの利かない過去の場面の味わい深さもまた、堪らない。
しばらく前に人から借りていた、江国(←旧字体が出ない)香織のエッセイ『いくつもの週末』を読んだ。 江国香織の本を初めて読んだ時に、彼女の使う言葉がとても心地よかったのを覚えている。独特の感性を基盤に次々と紡ぎ出された、どこかさっぱりとした印象の言葉たち。このエッセイも、読み終えてみるとやはりすっきりとした感じを受けた。内容は必ずしもそう言えないものであるにもかかわらず。 彼女の世界には、自分と似ているために嬉しくなって思わず肯いてしまうようなところと、それとは反対に、あっと驚かされるような思いもかけない発見とがあちこちに散りばめられていて、なんというか、キラキラしている。彼女に共感したりその世界に納得したりするのは、主に自分の中の「女」であり、自分の中の江国香織とも言えるような部分である。その逆は「男」の部分で感じることが多く、それはどんな女にも到底理解できないであろう感性というか感情というか、兎も角そんなものである。心理学ではアニマとアニムスとか言うのだが、人間の心の内には本来の性以外のもう1つの性が存在する、というような考え方がある。人は様々な物事において両面性を持っていて、確かに性別もその1つだと思う。女なのに男のアタシ。男なのに女のオレ。男にも女にもなり得る自分、或いは、常に男であり女である自分・・・。実に面白い。こんなことを考えに考えて、これだから人間ヤメラレナイよなぁ、と結論付けてみたりする。 さて、江国香織は独特の感性を持っていると思う、とはさっきも書いた。彼女の感覚には類を見ない鋭敏さがあって、それが彼女の感性を磨いてきたのだと思う。ボンヤリと生きていたのでは、決して手に入れることのできない世界。その世界に引き込まれて、自分とは違った新鮮なものの見方に気付く。エッセイを読んで、彼女の言葉が生まれる背景を垣間見たような気になった。ちょっとした嬉しさ。 そういえば、読んでいて気付いたことがある。非常に小さなことではあるが、自分は、クエスチョンマークを乱発しない日本語の文章が好きなのだということだ。日本語の専門家でもなんでもないただの日本人がわざわざ指摘するようなことではないかもしれないが、日本語には、「?」を用いなくても疑問文を作る方法がたくさんある。それが適切に充てられている文章の方が、私には好ましく感じられる。「?」を用いない方がニュアンスをより明確に表せる場合もある気がするし、どこかひかえめで、和風になる感じもする。もちろん、クエスチョンマークがベストチョイスだと思う場合はいくらもあるが。
江国香織の書く本は、大切に思う人に読んでもらいたくなるような、一種の優しさを持った本ではないだろうか。
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