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2001年03月23日(金)  誰も共感してくれなくてもきっと私は書き続ける

何かに強く心を動かされると、人間の脳は活性化する。前から思っていたことで、少なくとも私はそう信じている。

別役脚本の芝居を観た帰り途、こんなことをふと思いついた。

自転車も私も同じようなものだ。

薄暗い道路で、私は自転車のライトを点けて走っている。
自転車のライトくらいでは、前方の詳しいことは何もわからない。せいぜい、目の前何メートルに人が居ないということが確認できる程度のものである。
私は、ぶつかりそうな人を避けられるようにとライトを点けているわけではない。
ただ、前方から来る人には私が見える、そう考えてライトを点けているのだ。
私がその人のことを気にしなくても、きっと向こうが私のことを気にして、いいように対処してくれるだろう。こんなふうに思っている。他力本願であるし、責任感などほとんどない。もし向こうが同じようにテキトーな人間なら、正面衝突というちょっとした事故になりかねない。
私は日頃、色々なものに注意して生きているつもりだったが、もしかしたら何も見えていないのかもしれない。
自分はそれとわかるようにライトを点けて(ライトはまたいくらかの騒音を伴って)いるから、周りが自分に合わせて適当に動いてくれるだろうと考えている。自分は大して周りのことを見ようともせず、また見る気もないようなものだ。にもかかわらず、他人は自分のことをわかってくれるはずだと思い込んでいる。人生においてもこんな感じだったりするのかも、と思えてくる。
人は、自分のことはとかく棚上げせずにいられないと見える。おかしなものだ。

私の愛車は、銀色だ。ぴかぴか光ってはいない。と言っても、別に、故意につやを消したような上品さがあるわけでは決してない。ちょっとくたびれた中年を思わせるような、もとはそこそこ光をたたえていたはずの、所々汚れてしまった銀。
私は、そんな自転車の色を気に入っている。自転車なんてだいぶ前から、それこそ驚くほどいろんな色のものが売られている。買い換えるとまではいかなくても、磨きさえすればもとのつやを取り戻す可能性は十分あると思うのだが、今のところ磨く気もない。今の色に不満は感じていないし、何より、慣れた自転車に満足していて、他のものを探すのが面倒だということがある。
自分だって、同じだと思う。もう思い出の中の「あの頃」よりもピカピカしてはいないかもしれない。けれども(それだからこそ、と言うべきかも知れない)、私は今の自分をとても気に入ってしまっている。
まだ年齢的に中年には程遠いが、それでも、くたびれ具合が相当のものだという気はする。だいぶ汚れてもいる。
人の性格は時折「色(カラー)」という表現をされたりするものだが、私は『今』の色以外に、自分にあった色を探したり見つけたりすることはないだろう。それは、私が現状にすっかり満足してしまっているからだと思う。・・・正直、慣れてしまって変えるのが面倒臭いからという理由も多少ある。

一事が万事、という諺がある。私の生き方なんて、人間なんて、結局そんなものかもしれない。

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友人からの嬉しい知らせもあり、今日はとても充実した素敵な日だった。
ひとまず、人生はバン万歳だ。


真 |MAIL