Diary




2001年12月14日(金)
テツガク

 金曜日の二限は、「プラトンを読む」というゼミ形式の授業を選択している。
 哲学においての話が聞ける。質問もできる。議論もできる。うむー、よくよく考えると利用しない手はない場所である。
 11月頃は受講に対し中だるみしてたけど最近は張り切ってる。
 ものの見方が広がってくように感じる。大いなる錯覚かしら?まぁその可能性はさておき。
 自分の日記だからと身勝手をやります。はい。授業の覚え書きをここに展開したいと思います。



 ひとつ、論理の整合のみではその命題の真偽の考察に対して万能ではないということ。
 先々週の授業において、これを知らされた。うん、「知らされた」。
 ぎゃーと思った。改心して張り切って授業を受けるようになった原因はこれである。ぎゃーと思わされてしまった。
 あなや。自分の未熟さ、プラスそれに対する不知だったのだよ。

 私の中では論理は万能なのだよ。論理の整合こそ至上だったのだよ。
 だってサイエンスってそういう面があるでしょう。私はそう思ってるし、そして私はその考えの中で育つ理系少女であるから。らら。
 だから何かについて考えるとき、私は『●。ゆえに△。よって◇。となると■は*だ。ならば……』のようなやり方を主に行う。それで一本論理が整合したならそこでそれを真とし納得、ってかんじだった。
 そこで止まってた。常識や感情感覚の訴える違和感は、私にとっては論理によってむしろ反駁されたり矯正されたりされるものであった。
 でも違うのだ。それらをけっしておろそかにしてはいけないのだ!ということをリアライズさせられたのだよ。
 そうだなぁ。よくよく考えたら本末転倒だ。思考主体の私が論理に負けてどうするって感じだ。

 以上が先々週の授業で得たもの、その感想。
 
 そして結局どうするかというと、私はその常識や感情感覚の訴える違和感をおろそかにせずに大事にして、大事にした上でよりきめ細やかな論理展開をしよう。と思ったのである。

 これは論理至上主義から根本的に抜け出てないといえるか?そうともいえるしそうでないともいえる。
 私にとって一番の思考ツールはやはり論理であるのだから、その点では変化はないといっていいかもしれない。
 でも、ツールはあくまでツールなのだ。感情感覚や常識というものが、「より重要なもの」であるという認識をしよう。そうリアライズした。
 つまりは感情感覚や……いや、えーと、直感だ。そう。直感。直感のもたらすものを論理の答えよりも重きにおこう。ということをリアライズしたのだ。


 具体的に私のとる態度としてどういえるか、と、ばさっと要約すると、「探求心を深く深くもて」ってことだ。思考で違和感を感じるのならそれを無視するなつきつめろ、ということだ。
 その違和感を感じさせる機構は成長させることができるものな気がする。



 以上。頭が中途半端にレポートモードだから非常に冗長で申し訳ない。
 


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