リュカの日記

2006年01月17日(火)

午前4時半頃に目が醒めた。
起きた時間のせいもあるのか、気持ちがズンと沈んでいる。
それでも、何かを感じる事を避けてしまう。
以前の気持ちや感覚、価値観を取り戻そうと思うなら、とことん沈みきるしか手段は無いのに、どうしても強く何かを感じる事を避けてしまう。
沈んだり欝ったりする事を恐れ、どこかで制御が働いてしまう。
どれだけ沈んだところで「無駄にしかならない」、沈んだところでその先に希望なんて見つけられはしないのだ、と。以前のような都合の良い救いのようなものが現れるなんて、もう二度と無いだろう、と。
数年前に感じた『救われた感覚』が強烈過ぎたせいか、どうしても保障のようなものを求めてしまう。
「保障もないのに苦しむなんて」と。
素直に何かを感じる事を、自分自身で抑えてしまう。
そうやって考えたり感じる事から逃げてしまう事自体は、俺自身の至らなさというか、臆病さによるものなのだろうけれど。
そうやって、実感する事から逃げ続け、その結果、未だに何も取り戻せないで居る。そして、心もどんどんからっぽのような状態になっていく。
ますます戻れなくなっていく。

一度沈み込んでみよう、という勇気のようなものがどうしても持てない。
深く考え、深く感じで、また以前のように絶対的存在に感じる事も出来るかもしれないのに・・
一度そうなってしまうと、また回復までに数年かかったりするんだろうな、と。その間、殆ど生き地獄みたいになるんだろうな、と。
昔見た映画でも使われていた表現で、その頃は「自分自身をぶっ裂きたい」衝動が日常化していた。

薄れている状態から、また欝に苛まれるように仕向け、その上で救われた感覚を得て、また薄れさせようなんて、本当に茶番としか言いようがないけど。
それに、そうなったとしても二度目だし、今度は最初の頃のような神様感覚で相手を見たり、とまでは行かないだろうし。

昨日親に録画してもらっていた「西遊記」を観ようと、テレビをつけた。
ニュースで地元が映し出されている。
そうだった、今日は1月17日。
阪神大震災11周年目だ。

今日の授業は2と3だった。
昼休みが始まって10分が経過した頃に、俺は学校に到着した。
校舎の入口には、「阪神淡路大震災11周年」と、献花が添えられていた。
でも、それ以外では特に黙祷をしなさい、といった事も無かった。
校内放送では震災に触れていたりしたのだろうか。あまり聞き取る事が出来なかった。
去年は、校舎内のロビーで献花式が行われたりしたのだが、それも無かった。去年は10周年目だったから、特別だったのだろうか。
昼休みが終わり、3時限目を受けた。
3時限目が終わり、図書館に行った。
そこで、「トゥルー・コーリング」を3話分観て家に帰った。


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