とれとれ日記
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2003年12月05日(金) 短編小説 理想の死

本日は趣を変え、短編小説風に理想の死について書いてみよう。

 ハワイ・コナヘッド沖。1隻のフィッシング・クルーザーに、一人の男が水平線を見つめている。鍛え上げられた肉体に精悍な瞳は、歴戦の釣り師を思わせる。
 静かに船が動き出す。そして緩やかに速度を上げ、一定の速度に入るとそのままクルージングへと移行した。船にはトローリングロッドがただ一本立てられてあり、そこから伸びるラインの先には、男の期待を背負ったトローリングルアーが激しく水面を踊り続ける。右へ左へ、ときにダイブし、水上に飛び上がる…。そう、この付近に潜む悪魔の魚を誘い出すために。
 男はルアーを見つめながらも、これまでに歩んだ人生の道程を回想していた。何かに駆り立てられた十代の日々、二度目の夢に苦闘した日々の二十代。そして今…。37年の人生の中でもっとも円熟の齢に達したはずだった。夢を実現し、これからの人生の航路を考えるそのとき、運命は残酷な告知を行なってくれた。
 癌。その告知を受けた男は、奇妙に冷静な自分を意識した。思わず苦笑したのを覚えている。やはりな、といった感じだった。病状を説明する医師の話なんか覚えていない。余命三ヶ月、延命は期待できないとの言葉だけを憶えている。翌日、会社に退職届を送付し、電話のコードを引っこ抜いた。「好きなようにやらせてもらおう、最後のわがままを。幸い、身よりもないことだ」
 わずかな財産をまとめると、昔からの夢を実現させるためハワイへと飛んだ。そして今ここにいる。
 海の上で揺られていると、今、自分が癌であること忘れてしまう。抜けるような青い空、さえぎるものがない海面には水平線。ふと、このまま元の世界に戻れるような錯覚すら覚えるが、煙草を吸えば現実を思い出す。美味くない。鉄に似た味が肺から湧き上がる。
「不味いな…」
それでも男は煙草をやめない。最後は煙草をくわえて迎えたいとすら思っている。
 男が2本目の煙草に火を付けようとしたそのとき、海面を暴れるルアーの後ろで数回、水柱が立ち上がる。その水柱は徐々にルアーに接近し、ついにルアーを弾き飛ばす。
「きやがった!」
男はファイティング・チェアーに飛び乗ると、ロッドを握り締める。人生の最後の相手と決めた、悪魔の魚が今まさに喰らい付こうとしている。息が荒くなるのは肺にすくむ癌のせいだけではない。釣り師の性だ。呼吸は荒くなり、鼓動は高ぶる。そしてやつが姿を現す!
ブルーマーリン!!
世界中の釣り師が追い求める至高のターゲット。体長4mに達し、重さは500kgを超えるファイター。その口は剣のように伸び、ときに人を串刺しにし、船を破壊する。そいつが今、男の前に姿を現した。
「でかい…こいつがマーリンか…」
ルアーを追うマーリンはその頭だけで想像を絶する。ソードにたとえられるその嘴はゆうに1m近い。全長は4mを超えるだろうか?そしてその悪魔の剣がルアーを弾き飛ばし、落ちたところを悪魔の口がくわえ込む!
「かかった!」
そう口に出した瞬間、竿が絞り込まれ、リールは音を立てて糸を吐き出す。完全にルアーをマーリンがくわえ込んだそのとき、全身を使い、渾身のフッキングを食らわす。
「フックオン!!」
その瞬間、怒涛の勢いでマーリンが走り出す。リールに巻かれた糸は見る見るうちに減っていく。そして止まる。すかさず糸を巻き上げる。ジャンプ&テールウォーク。全身でマーリンに耐える。走られては耐え、ポンピングで糸を巻き上げる。
「辛い、こんなにも辛いのか…。これこそがマーリンを求める釣り師たちの心を捉えて離さない魅力なのか…」
 すでに一時間は過ぎ、体力は限界に近いていく。病に蝕まれた体が悲鳴を上げる寸前、転機が訪れた。走り出したマーリンが急に方向を変え、船に突進してきた!急ぎリールを巻き上げる。糸ふけはバラシを誘発する。そしてマーリンが船体に近づいたそのとき、強烈なジャンプを喰らわせた。限界にまで曲がった竿が悲鳴を上げ、ついにへし折れる。
「………!」
 瞬時の出来事がスロー再生のごとく目に映る。しかし男の行動は早かった。糸を掴み、己の腕力でマーリンに立ち向かう。もがくマーリン!しかしそのとき、マーリンも限界に近づいていた。それでも糸は男の手に食い込み、グローブの下の皮膚は裂けた。男は残る命を燃やし、マーリンを引き寄せる。激しい攻防。そして船体に引きずり寄せられたマーリンは、船体の間際で暴れ狂い、激しく抵抗する。鈍い音が数回響き、船体が嫌な音を立ててきしむ。しかしマーリンの必死のあがきもついに途絶え、ギャフを打ち込まれるだけとなる。
「……これで終わりだ…」
男は手にしたギャフを構え、最後の一撃を振り下ろそうとしたそのとき、不運が襲う。激しい咳。もはや体力は限界を超えていた。そしてその隙が、マーリンにとって最大のチャンスであった。マーリンは最後の一撃を放つ!その悪魔の剣を男の胸へと突きたてた。
 鈍い音を立て、悪魔の剣が男の胸に突き刺さる。
「ゴボッ…」
男の口から赤い泡が漏れ出す。意識が遠のく。しかし、男は最後の一撃を振り絞る。ゴギャッ!!
 マーリンの急所に突き立てられたギャフから鮮血がほとばしる。そしてマーリンの体色に変化が起こる。死の間際に輝くとされる、マーリンのコバルトブルーの燦然とした命の輝き。そしてマーリンの瞳から生命の輝きが消えた。
「長かった…しかし満足だ…」偉大な敵手の最期を見た男は、ギャフを離し、胸を貫いたマーリンの剣から身を引き離す。どす黒い赤が流れ落ちる。急所は外れたが、致命的な出血には変わりない。血に染まったシャツのポケットから煙草を取り出し、男の最期の一服が始まる。男の目には紫煙が映っていた。味はしない。体の感覚もない。船の中に海水が浸入していることに気がついた。どうやらファイト中にマーリンによって亀裂が入ったようだ。
「やってくれるぜ…引き分けか」
 静かに目を閉じると徐々に体が海水に濡れてゆく。
 そして船は静かに沈み、男を乗せて深く静かな海底を目指し姿を消した。

                               完。


チャンコノフ |MAILHomePage

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