ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

転機 - 2001年02月24日(土)

昔からよく転ぶ方だった。傘もよく置き忘れた。些細なことにはいい加減だった。しかしこの数ヶ月の変化は、これまでの人生ではあり得なかった出来事が次々に起こり、徐々にその間隔が短くなっていった。

最初に自覚したのは、生まれて初めて財布を落とした時。私は大事なことには慎重な性質で、人に注意しても自分が落とすなんて信じられなかった。次に、これも生涯初でお皿を割った。10歳の頃から皿洗いをしているが、ただの一度も欠けさせたことすらなかったのに。その次は免許証を落とした。親切な人が気がついて追いかけてきてくれなかったらどうなっていたか。ホテルのガラスのショーウィンドーに激突した。存在に気がつかなかったのだ。そんな細かな出来事が少しずつ頻繁に起こるようになっていった。でも「最近ちょっとぼんやりしてるから気を付けよう」くらいにしか思わなかった。誰だってそうだろう。
会社のモバイル用パソコンを電車に置き忘れて取りに走ったり、左右の靴を微妙に履き違えたり、後ろから呼ばれても気がつかなかったり。それでもまだ、きっと薬のせいでボーっとしてるんだろう位にしか考えていなかった。

それから数ヵ月経っても、このぼんやり性は治らなかった。コップに水が上手く注げなかったり、言葉がなかなか出てこなかったり、歩いていて壁に激突したり。
仕事だけは辛うじてこなしていたが、私の世渡りの武器であった記憶力の減退には参った。これまでクライアントとの打ち合わせでも社内会議でも「メモ要らずの記憶マシン」と呼ばれてきたのに、徐々に細部が思い出せなくなってきた。商売道具の1つでもあったから、これは精神的ダメージも大きかった。年を取った証拠かもしれないと感傷に耽りながら、自覚して以降は必ず何事でもメモを取るように心掛けた。

既に家事は完全に放棄していた。体力が落ちて、家ではひたすら身体を横たえてテレビばかり見ていた。特にドラマをよく見た。表向きはかつてのシナリオ仲間達の活躍を見て奮起することを目的としていたが、潜在意識の中では一種の自己嫌悪であったかもしれない。もしくは目の前の何か不吉なことから目を背けたかったのかもしれない。そんな私に夫は溜息をつきながらも堪えてくれた。これは本当に申し訳なかった。
流石に「これはひょっとしたらおかしいのではないか」と自覚したのは、具合が悪くて家に居た日にやってきた訪問販売で、35万円の超音波美顔器を購入した時だ。私は翌日にはそのことをすっかり忘れていた。請求書が届いて、始めは何かの間違いかと思った。よくよく見ると手元に商品がある。もう少しでクレームの電話をかけるところだった。自分で購入しておきながら、その記憶からスッポリと抜け落ちていた。いくらなんでもこれは変だ。

丁度この頃、生まれて初めて健康診断にひっかかった。どんなにキツイ薬を飲んでいても身体だけはオールAなのが自慢だったのに、心電図で再検査になってしまったのだ。周囲から心電図は正常な人でもひっかかる時があると聞いていたから、別段驚きもしなかった。もう一度検査に行けばいいだけの話だ。ただオールAの記録が途絶えたことだけが悔しかった。11年目の不覚。笑
このところ動悸の発作止めのβブロッカーが効かなくなっていた。多分そのせいだろう。今度もう少し強い薬に替えてもらおう。そして最近のやる気のなさを何とかするために滋養強壮の薬でも貰おう。のんびりとそんな風に考えていた。
再検査の結果は精密検査を受けろ、だった。再検査は精密検査じゃないのか?会社指定の病院なんてろくなもんじゃない。何回も検査ごときで会社を休むわけにはいかない。本当は丸一日休むことすら困難なのだ。私が絡むすべての意思決定がストップしてしまう。まったく病院と銀行ほど勤め人泣かせのシステムはない。精密検査は当然ながらバックレだ。

流石にこの頃になると、会社でも通常の内科医だけではなくメンタルへルス専門の産業医が月に1回来社するようになっていた。ちょうどよいタイミングだったので、その際に相談してみた。担当は帝京大学の内海先生だ。きっちり1時間診察してもらった。当然その場で典型的なパニック障害と診断された。自分の状態については把握しているつもりだったけど、やはりちょっと不安だったのでホッとした。
でも先生は難しそうな表情で首を振りながら「脳波をとったことある?」と聞いた。数年前に1度、と答えると「そうか・・・最近はないんだね。脳のMRIは?」それも同じ頃に、と答えると、先生は紙に何やら読めない文字を書き始めた。「治療期間が長引いてる人の場合、色々と気をつけなきゃきけないことがあるんだよね」先生は手を休めずに言った。「ホントはウチの病院に来て精密検査を受けて欲しいんだけど、予約取るのが大変だから個人病院を紹介するね。はい、これ」と、阿佐ヶ谷の小さな病院に紹介状を書いてくれた。「個人病院だけどしっかり診てくれるところだから安心してね」まだ若い内海先生は、私が通っている公立昭和病院も帝京大学病院と同じように、一人一人を細かく診て症状の変化を察知するのには不向きなことを悟っていたのだ。

こうして数年間通った公立昭和病院から、近所の個人クリニックに転院することになった。ここで病状の進行と療法は転機を迎えたのだった。

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