ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

入店 - 1998年05月10日(日)

その店はひっそりとした佇まいで、雑居ビルの1階。落ち着いた緑の看板が目印の小さなスナックだった。名前を「D.L.L.」という。
数ある広告の中から此処を選んだのはいくつかの理由がある。
まず、会社から家までの途中の駅にあり、しかも繁華街でないこと(要するに会社の人間が決して立ち寄らないような駅であること)
そして時給が控えめであること(時給が高いと何をさせられるかわかったものではない)
広告に「お酒が飲めなくても構いません」「服装はカジュアルでOK」とあったこと
何よりも「基本は19時から(場合によっては遅くなっても構いません)24時まで」という勤務時間(流石に24時を越えると翌日の仕事に差し支える)及び週2回からOKという勤務形態

予め電話しておいて、開店前に店を訪れた。店にはママが一人で待っていた。
見たところは40代、元ミス・ユニバースか宝塚かというスラッとした長身で細身のスタイルと美貌に驚いた。(後で実年齢が+20歳と知った時には本気で腰を抜かしそうになった・・・)
ママは慣れたもので、最低限の必要事項を次々に聴かれていった。バイトの理由を聞かれたので正直に住宅ローンのことを話すと、ひとしきり同情してくれたらしい。経験のなさを差し引いて、複数の応募者の中から私を選んでくれた。とりあえず時給は1500円からスタート。週2回、火曜日と木曜日に勤めることになった。カウンターが10席、テーブル席が5つの小さなお店。

初めての日は失敗ばかり(笑)何せ全く経験がないので、水割りの作り方さえわからない。ママと最古参の先輩であるマユミさん(昼間は建築事務所の一般職OLさん)に親切に教えてもらった。1日に女の子は3人ずつローテーションで入る。みんないろんな事情を抱えて必死に働いている。
開店前の掃除とグラス磨き、おつまみの下拵え。そして開店。
お酒が飲めないので、梅酒を限りなく水で割ったものをひたすら飲む。ライターの火をタイミングよく差し出す。コースターや灰皿チェンジのタイミング。さりげなくカラオケをねだり(入店時にはまだレーザーカラオケだった...笑)、各テーブルのお客さんに均等に歌の順番が回るようにする。ボトルをさりげなく空けてキープを誘う。これらがなんとかこなせるようになったのは、初めて店に出てから1ヶ月は経った頃。適当な時間ごとの席チェンジのタイミングが一番難しく、ママに随分と助けてもらった。

慣れてくると、想像していたより辛くはなかった。お客さんも殆どが常連さんばかりだったし、私の家とママの家がとても近所だったので帰りも必ず車で送ってもらった。微量ながらもアルコールを摂取しているせいだろうか?薬もよく効いて、お店に出ている間に発作を起こすことは一度もなかった。
時にはお客さんのおごりで閉店後にお寿司屋さんに連れて行ってもらったり、帰りにママと二人で深夜のファミレスに寄って珈琲を飲んだりした。お茶しながらママの娘さんのことでのお悩み相談にのったり、ママの華やかな昔話に感嘆したり、友達のように心を許していろんなことを話した。
ママも私がろくに食事を摂らないのを心配して、よく混ぜご飯やお稲荷さんを持たせてくれた。

お店でも総合職会社員の女の子というのは珍しがられて、一部のお客さんにはそこそこ人気があった。カラオケも割合に評判が良かった。気が付くといつのまにかNo.2とやらになっていた。No.1は元銀座の売れっ子、ハスキーな声が特徴の文句無し超美人、ジュンさんだ。出勤日数も請われて週3日に増えた。いくら病気のせいだから仕方ないとは思っても、会社でどんどん落ちこぼれていく自分を不甲斐なく思う気持ちはあった。でもここではそうじゃない。私なんかでも働き手として必要としてくれる。
会社では少しずつ化粧や服が派手になっていく私を、彼氏でも出来たのかと思っていたようだ。もちろん仕事に手抜きはしない。会社だろうがお店だろうが。
ひょっとするとこういう仕事が向いてるのかもしれないな、などと思い始めた。もちろん楽しいことばかりではなかったけれど。既に少しずつ感情を失い始めていたから、あまり気にもならなかった。

店の名前の「D.L.L.」は「Daddy Long Legs」の略。つまり「あしながおじさん」である。確かにお店にはあしながおじさんがいた。毎日やってくる集団のお客様。店の入っているビルの2階と3階は、小さな組の事務所だった。会長(決して組長とは云わないのがこの世界の流儀である)は滅多に顔を出すことはなかったが、それ以下の幹部の皆様は必ず毎晩お店を訪れてくださった。始めの頃は無性に怖くて仕方なかった。しかし逆にこれが有難いものだと理解したのは半年ほど経ってからのことだ。

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