風太郎ワールド
ここ数日、このコラムも多少まじめな論調になっている。現在、世界が、そして日本が置かれた状況を考えれば、日常生活に埋没して、無視を決め込む気持ちになれない。 正義論は別として、私が一番胸を痛めるのは、多くの読者のみなさんと同じく、戦渦に倒れる、罪もない人々である。もう20年以上も戦争に翻弄されてきたイラクの民。疑問を持ちながら戦場に赴いた若い兵士。 人間の盾としてイラク入りしている日本人の方々もいらっしゃる。非常に立派な行動だが、彼らの安全も危惧している。先日、イスラエル軍のブルドーザーに轢き殺されたアメリカ人の活動家もいた。盾として志願した方々は、命を失う可能性が現実のものだと、理解しているのだろうか? 私なら、この段階でイラクには行かない。日本では、「人命は地球よりも重い」という考えが通じるかもしれない。アメリカでは、犯人逮捕のために人質が死ぬのもやむえない。"Collateral damage"なのだ。 アメリカは、大きな振り子のような社会だ。ひとつの極端からもうひとつの極端へ、何年かごとに大きく振れる。 クリントン時代の8年は、今とはかなり雰囲気が違った。内政、経済、テクノロジーなどが大きな関心事で、たまにメディアが騒ぐのは、大統領の不倫事件。 国連支持のないイラク攻撃が決定された時、アメリカのロバート・バード民主党上院議員はこう嘆いた。 "No more is the image of America one of strong, yet benevolent peacekeeper..." "Benevolence"――優しくて公正 そう、それこそが、私にとって、アメリカに感謝し、アメリカというリーダーを信頼しえた理由だった。 ひるがえって‥‥。 今のアメリカを説得するのは無理だろう。 いや、戦争反対運動が無駄だというわけではない。それどころか、今後も大きな声を上げて戦争反対を訴えつづけていきたい。たとえ、結果は失望するものであっても。行動したこと自体が、意味を持つ。 もっと根本的な問題として、そもそも今のアメリカとは、話し合いが成立しないのだ。イラク戦争に反対する陣営とアメリカ(の保守派)は、まったく同じ土俵に乗っていない。 平和、人命が大切なことは、アメリカもよく分かっている。しかし、それを達成する方法が違う。 今のアメリカのやり方は、武力による問題解決だ。力の外交。そして、彼らの信念の裏には、成功体験がある 冷戦の勝利。レーガン時代に、軍拡競争を推し進め、「悪の帝国」ソ連を崩壊に到らせた。自由主義社会を勝利に導いた。強い軍事力で。 ポワーポリティックス信奉者達には、もうひとつ大きな歴史上の教訓がある。 第二次世界大戦勃発前、イギリス首相チェンバレンが採った対独宥和政策だ。衝突を避け、譲歩をしたために、ヒトラーの増長を許した。その後、チェンバレンにとって代わったチャーチルは、断固戦う決意を貫き、イギリスを勝利に導いた。以来、軍事行動に対する弱腰を批判する場面では、決まって引用される。 武力で世界の問題を解決するのはよくない。分かっている。しかし、武力介入がなければ、91年のクウェートはどうなっていただろう?ボスニア・コソボはどうなっていただろう? 我が日本を振り返っても、北朝鮮工作員は自由に日本に出入りし、拉致を行い、麻薬を持ち込み、テポドンを(衛星と称して)発射した。拉致被害者あるいは彼らの家族は、いくら待っても帰ってこない。 北朝鮮が、テポドンを発射したらどうする?核攻撃を仕掛けたらどうする?科学・生物兵器が、東京に、大阪に、あなたの家の近くに落ちたら、どうする? 黙って、されるがままにいるのだろうか?それこそ、社会党全盛時の「非武装中立」理論ではないか?10代の私も、例に漏れず、一時期そういう理想の世界を信じていた。 それとも、今こんなに非難しているアメリカの軍事力の背後に隠れるのだろうか? 戦争は悲劇だ。私もこの戦争には反対だ。戦争の「根拠」が不十分である。「緊急性」の要件を満たしていない。 しかし、非常に強い苛立ちを感じている。 それは、戦争はよくない、平和的な手段で問題解決を、話し合いを、と信じながらも、十分な説得力を持ちえない自分に対する、挫折感なのだ。 話し合いが成立しない無力感。これは過去にも何度か味わった‥‥。
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