風太郎ワールド
2003年03月03日(月) |
ダンシコウビョウからの脱出 |
さて、ダンシコウビョウだ。いよいよ佳境に入る。
前回は、私の懸命の努力が実は間違った方向に向かっていたという話をした。つまり、「男性」作家、それも本人自らダンシコウビョウにかかっている疑いのある作家が書く処方箋ばかり読んでいた。その結果、とんでもなく女性を誤解していたかもしれない、という事実に気がついたということ。では、どうすればよいのか?
そう、賢明なあなたならすぐに気がつくだろう。「女性」によって書かれた本を読めばいいのだ。女性なら当然、女性自身の心理、本音、願望を理解しているはずだ。何故こんな単純な理屈に今まで気がつかなかったのだろう?
私はそれまで女流作家の本というものをまったくといっていいほど読んだことがなかった。オトコは、オトコが書いたオトコの文学を読むものだと、知らず知らずのうちに思い込んでいたのだろう。恋愛も、女性についてさえも、オトコが書いた本を読んで理解しようとしていたのだ。
女性作家を読む。それは、当時の私にとっては――ちょっと時代遅れの表現を使えば――コペルニクス的転回であった。
まず、どんな作家がいるのかよく知らなかった。遠藤周作先生のマドンナでもありお友達でもある佐藤愛子先生のことは知っていたが、ほとんど読んだことはない。曽野綾子女史は何だかお高くとまっていそうで近寄りがたい。だれか、読みやすくて、おもしろくて、それでいて女性についての真実を教えてくれる作家はいないのか!
そうあれこれ物色しているときに、知り合いの女友達が、「これスンゴイおもしろいから読みなよ」といって一冊の本を貸してくれた。
「姥ざかり」 作者、田辺聖子。名前は聞いたことがあったが、どうも大阪アキンドのイトさん・コイさんを描いた泥臭い作品を書いている人じゃないかという、根も葉もない思い込みがあって、あまり気にかけたこともなかった。
ところが、その「姥ざかり」。一度読み始めたら、これがやめられない。とてつもなくおもしろい。オトコの俺がこんなにエンジョイしてエエのやろか?と悩むくらい、とにかくエンターテイニング。「ハイ、サヨデッカ!でわ、サイナラ。アハハハ」という痛快さなのだ。
こ、こんな素晴らしい作家がいたのか!それからだ、田辺聖子の作品が私の書棚の一段を占領し始めたのは。
彼女の著作を読み出してすぐ気がついた。彼女が描く女性像は、遠藤周作氏とはまったく違う。女性から見た女性の姿ってこうだったのか。初めて知る真実。
女子学生ってこんなことをしていたのか。だれも教えてくれなかった。想像だにしなかった。すべてが新鮮な驚きで、発見の連続だった。
ちなみに、このコラムを読んでくれている男性読者のあなた。あなたは、あんなに可憐で純情に見えた女子高の生徒が、実は、夏の暑い日、学校の休み時間にスカートをまくって下敷きで扇いでいたって知っていたか?
また、その少し離れたところでは、別の女子高生がフケを落としては下敷きで集め、たくさん溜まったその自分のフケをじっと観察している、という姿を想像できるか?
あるいは、あの禁断の花園、女湯では、お湯に浸かったひとりのオンナが、湯船の隅に陣取って、他の女達が湯船の縁をまたいで入ってくるたびに、
田辺聖子先生から習った真実の数々は、私にとって衝撃の連続で、あやうく卒倒しそうになるところであった。
ただ、この話は一昔前のことである。「何でもあり」の今の時代に思春期・青春期を送っている若者達にしてみれば、「このオッサン、なに時代遅れのアホな話しとんねん」ということになるのかもしれないが。
それはさておき、青春真っ只中にあった私は、こうして田辺聖子先生から女性のありのままの姿を学び、大きく変貌を遂げていくのである。
(そのはずである‥‥ ^^;;)
ご愛読ありがとうございます m(_ _)m
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