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2004年12月05日(日) 先住民

明け方すごい風の音がしていた。そういえば、強い雨が降るっていってたなぁと思いつつそのまま起きずにいたら、朝外を見てびっくり。ベランダ一帯にプランタの土と藻が散らばっている。はぁ?夜中のインスタレーション(今「新日曜美術館」視聴中)ですか?窓ガラスにも土がついている。台風の時だってこんなにひどくはなかったような…。不精しないでプランタを奥に下げとけばよかったなと思いつつ、ベランダを掃いて水をまいた。日差しが強い。もっと乾燥したほうが片付けやすそうなので小休止。せっかくの日光なので箱入り娘のバジルの鉢植えを外に出す。

ところで最近、私の周囲はFeliceさんにインスパイアされるのが流行。いまやFeliceさんの日記は必読の書ですよ、奥さん。

新選組のドラマがもうすぐ終り。今続々と新政府軍が江戸に向かって集結しているところ。見ているとドラマそのものよりもポスト新選組(つまり明治維新以降)の日本のあり方とか考えてしまうが、これで次に江戸に遷都されて「東京」が生まれて、廃藩置県が行われて今の中央集権の土台ができるわけだ。
で、インスパイア源Feliceさんは12/4の日記で関西人の東京(人)への対抗意識について取り上げていて、その中で司馬遼太郎の小説の一節を引いて「幕末・維新を経て中央政権が急に押し寄せてきた」ことに対する反発心が、今の対抗意識の元凶ではないかと書いている。それまで帝のお膝元にいて独自の文化を作り上げていた人たちが、なにやら関東のほうから中央集権という名前のもとに言葉やら制度やらを押し付けられたら、それは反感を持つだろうということだ。しかし考えてみると、当時の東京の中央集権というのはほとんどが薩長が占めていたわけで、大阪あたりからしてみると、今まで遥か西にいた人たちが作ったものが、今度は東のほうから高圧的に押し寄せてきたという形になる。
「東京は田舎ものの集まり」というのは言い古された言葉だが、東京にも先住民(江戸っ子)はいた。江戸っ子は三代続かないと、などと言って江戸弁を操り、これまた独自の文化を誇っていた人たちが、中央集権化で急に自分たちの居住区に押し寄せてきた、言葉も振る舞いも違う「東京人」をどう感じていたか。さぞさまざまな軋轢があったことだろう。

(追記:上のように回りくどく書いてしまったけど、これに関連して掲示板にも大雑把に書いたことを以下に採録。)
-----------追記ここから-----------
えーと、つまり「坊主にくけりゃ袈裟までにくい」という言葉通り、中央集権の本拠地である東京がにくけりゃ「東京人」までもにくいという論法も成り立つだろう、でもその「東京人」というのも、所詮は地方から集まった人たちの寄せ集めなので、もともと先住民である江戸っ子も「東京人」が嫌いだったろうなぁ、ということを言いたかったわけですが。
----------追記ここまで-----------

子供の頃、神田の問屋街あたりにつれられて行ったことがある。通りすがりに商店のおじさんに道を尋ねると、「この道をマッツグいってね、シロイ道をね、うん、そこのシロイ、シロイ道を…」と説明してくれた。いくらその方向を眺めても白い道はない。不思議に思っていたが、大人は理解したらしくお礼を言って目的地にたどり着いた。「広い」を「シロイ」、「まっすぐ」を「マッツグ」といったりする人があるのをそのとき初めて知った。最近は落語家も標準語だし、今神田あたりでこういう話し方をする人はめっきり少なくなっただろう。


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